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『白い絵』
男は画家だった。
だが、実際には「自称」である。
絵を描くことに半生を捧げてきたが、
男の描いた絵は一枚として売れなかったからだ。
何にでも先立つものが要る。
画材は結構な値段がするし、飯も食わねばならない。
日雇い仕事で糊口を凌ぐのがやっとの日々。
一緒に暮らしていた女はとうの昔に愛想を尽かして去り、頼るべき友も親類も無い。
そんな暮らしの中で、気付けば髪には何時しか白いものが混じっていた。
季節は巡り、秋も終わる頃。
男の人生もまた、冬を迎えようとしていた。
男は焦った。
(せめて、たった一枚でも良いから絵が売れたなら……。
今までみたいな中途半端がダメなんだ。もっと創作に没頭せねば。
描きたいものは未だ胸の内にある。
今が最後のチャンスだ。この炎が消えてしまわぬうちに……)
男はカンバスに向かった。
いく日もいく日も。
日雇いのバイトも辞め、食べることも寝ることも忘れ、ただひたすらに……。
「なんか隣から、凄げえ変な臭いがするんすけど」
アパートの住民の苦情を受け、大家は男の部屋に向かった。
(嫌な予感がする)
男には家賃の支払いを暫く待ってくれと言われ了承はしたものの、約束の期日になっても振り込みが無い。
連絡しても全く返答がなかったので、来月には退去して欲しいと告げる心算だった。
アパートに到着すると、男の部屋からは異様な臭いが漏れていた。
念のために呼び鈴を押しても、やはり応答が無い。
嫌な予感は確信に変わる。
合鍵を使って入ると、中はカーテンが閉め切られて薄暗かった。
屍臭が充満する部屋は、家財道具らしきものもなく閑散としている。
その中ほどに、「かつて人であったもの」が横たわっていた。
電灯も点かないので、送電を止められたのだろう。
傍らには電灯代わりなのか、小さなランタンが転がっている。
「やれやれ……これじゃあ暫く借り手はつかんな……。全く、とんだ災難だ」
大家は思わず愚痴をこぼした。
決して酷薄な人間ではなかったが、損害を考えれば無理もない。
冬の日没は早い。
窓を開け放して警察を呼ぶ頃には、もう陽が傾きつつあった。
ふと部屋の片隅に目が行った。
そこにはイーゼルが置かれており、真っ白なカンバスが架かっていた。
よく見ると、何度も何度も上描きしたのだろう。
画面は幾重にも塗り固められて分厚く盛り上がっている。
まだ新しい油絵具の匂いがした。
(一体、何が描きたかったんだ。真っ白けじゃないか。
おそらくは死ぬ直前まで描き続けたのだろうに、結局は何も描けなかったのか?
そうして何も無い部屋で独り逝って、なんという惨めな人生だろう。
そう思うと何とも哀れだ。
そういう俺も、老親を亡くした今は独り身だったな......)
大家は男を見下ろし、何やらやり切れぬ思いで溜息をついた。
その時、陽はさらに傾いて部屋を明るく照らした。
夕陽に照らし出された男の顔は、何故か満足げに微笑んでいるように見えた。
それを見た大家はハッとし、覚った。
(……そうか……。最期には納得がいくものが描けたんだな……)
大家は改めて暫くじっとその「白い絵」を眺めていたが、やがて物言わぬ男に声を掛けた。
「なあ、この絵は俺が買い取らせてもらっても良いかい?
お代は溜まってた家賃ってことで勘弁してくれよ?」
そう言って腰を屈めると、目を閉じ静かに手を合わせた。
穏やかに晴れたある冬の日の夕暮れ。
ついに、初めて男の絵が売れた。
<了>