【掌編】『出さない手紙』
お元気ですか。僕は、まあまあ元気です。
人間、嫌なこと、思い出したくないことは自然と忘れるようにできているらしいです。それはどうも本当らしいというのを今、実感しています。なぜなら、君から別れを告げられたあの日あの時の記憶は、ほとんど無くなっているからです。
断片的に残る記憶は、ほとんど降りたことの無い馴染みの薄い駅に呼び出されたこと。悲しいほど無表情で淡々と話す君のこと。帰りの切符を一人で買って放心状態で帰ったこと。もう、どこの駅だったかも覚えていません。
幸か不幸かこの世界には共通の知人がいます。困ったことにそいつと会う度に君の消息を知ることになります。幸せなことがあったらしいこと。苦労しているらしいこと。そして一人に戻ったこと。その後、元気でいること。などなど。
その間、僕は東京を離れ郷里で結婚しました。子供たちはもう独り立ちして巣立って行きました。少し落ち着いた今、ふと物思いにふけると若かったあの頃、東京で過ごした浪人、学生時代や社会人なりたての頃が良く浮かんできます。それと一緒に思い出される君の笑顔。これまで生きてきた時間の中で、ほんの一時かも知れませんが、君が恋人でいてくれたことは良い想い出として消えることはないようです。
今になって思い返すと僕との別れを決心した時、もしかしたら君は、きちんと冷静に考えてあの駅を選んだのかも知れないと気が付きました。君にはそんなところがありましたから。
勝手にこんなふうに解釈することにします。いつも会っていた場所、楽しい想い出のある場所を避けたのではないですか? そして帰りの電車が別々になるような駅を選んだ。それは、もしかしたら僕が最後に貰った優しさだったのかも知れないと。
考えすぎかも知れませんね。それでも、いつかどこか別の世界で出会えたら言いそびれたこの言葉を贈りたいのです。
『ありがとう』
(760文字)
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