1973年の現代史①

✣ テキスト/音源の両方とも専門家の卓見と引用はネットに溢れています。必要に応じて御参照下さい (筆者はキリスト教会とは無縁です)。

アルパはオメガの始まり

 クリスマスを 繰り済ます季節に ふと思う。冬至近くの 世界の生気が死に絶える頃に 殆どの生命が蘇る春を想うのは 脳細胞の活動が正確になぞるヴェクトルなのかもしれない。春は復活の季節だから、その前には当然 死がある。なのかしらない 大気が低温乾燥しきる この時節 アメリカン テュンの歌詞が亡霊のように脳裏を往き来する (とくに 空を飛び始める後半部分)。ポル サイモンのテキストにボブ ディランと同質の肌感覚が伝わって来るのはユダヤの血筋から来るのか (ジクムント フロイトの療法 (理論の一歩手前の組み立て)、エトムント フサル (最後期) の認識論 (に拓ける地平の直感) に同質の手触りを感じるのは思い過ごしだろうか) 。

アメリカン テュンの詩の解明に向けて

 取り敢えず 意味の世界は複雑過ぎるので棚上げにする。テキストの音響部分だけだと アメリカン テュンは適度に押韻に配慮があって 流石 ブリル ビルディング サウンドの荒行で音楽人生を始めたミュジシャンと確認する (作詞はゲリ ゴフィンだが テキストの音韻面の扱い方に Pサイモンはキャロル キングと同質の音楽勘がある。ここが Bディランとの一番の相違点か。Bディランも もちろん押韻等を使うのだが、用法の細部が少し違う)。サウンド オヴ サイレンス、ブリッジ オヴァ トラブルド ウァラ、Pサイモンの歌詞は時折 意味の迷宮を覗かせる場合がある。言語明朗 意味不明に近い。単語と その意味は簡易明瞭なのだが、井戸の内部に籠り続ける残響、銀 (色) の少女が迎える輝きの時 (代)、それらイメージが どこへ向かうのか そのヴェクトルは捉え難い。

 詩は言葉だから 書いてある以上ではないし 以外でもない。と云って 言葉に拘泥しては 解に辿り着かない (正解の解ではなく 了解の解)。とくに ユダヤ固有のDNAを背景にもつ詩の場合に この迷宮が多い。そこで、自由の女神、メイフラワ号、アポロ計画等、まずは バッサリ諦めて 1973年発売の音楽 (アメリカン テュン) に逢着した音楽史の経緯を辿り直す。時間軸に遡行方向で 1700年代前半 マタイ受難曲 (BWV.244) までの中間事情は いきなり飛ばしてしまっても構わないのだとは思う (英語版に翻訳した讃美歌とか 旋律の流用など)。つまり Pサイモン ダイレクト JSバッハ (1973 → 1742/1740/1727の受難金曜日)。250年近く遡る。この歴史点を差し当たっての着地点と予定するが、その前に 更に時間軸を遡行する。

輻輳する時代様相の下に

 テキストでは受難曲の初演から70年近く遡る 1656年、パウル ゲアハルト(1607−1676) のドイツ語化が第一の資源点 (ヨハン クリュガ編集の曲集 プラクシス ピエタティス メリカ 歌謡を通して実践する敬虔 1656年の版本は第6増補版)。そこから更に400年少し遡る メンブラ イエス ノストリ (パティエンシス サンクティシマ 受難した我等がイエスの最も神聖な御身体)、ルヴェンのアルヌルフ (c.1200−c.1250) が 制作した このラテン語宗教詩が テキストの最終資源点=始点 (クレルヴォのベルナルドゥス (c.1090−1153) が作者なら 更に 100年遡るのだが。因みに ルヴェンは現在はベルギーの都市 ルヴァン。現象学の最深源資料集成 フサリアナの所在地として知られる)。
 アルヌルフ作のラテン語宗教詩は十字架上のイエスの身体の7部分を順になぞって それぞれに信仰を寄せる内容で、御足 (Ad pedes)、御膝 (Ad genua)、御手 (Ad manus)、御脇腹 (Ad latus)、御胸 (Ad pectus)、御心 (Ad cor)、御顔 (Ad faciem) の7部分からなる。この最終部 アド ファチエム (御顔に) をドイツ語に翻案したものが Pゲアハルト作のコラール (歌詞)、血潮滴る主の御頭 (O Haupt voll Blut und Wunden 1656年)。この歌詞に 他の宗教歌謡と同じ旋律を付曲したものが JSバッハが編曲したコラールの原曲。Jクリューガの翻案/編曲だったか。(因みに ラテン語宗教詩 メンブラ イエス ノストリをそのままテキストにして 7曲で構成する連作カンタータに仕上げたのが BuxWV.75 (1680年)、ディトリヒ ブクステフデ (c.1637−1707)の大作)。

 一方、旋律の始点は ハンス レオ ハスラ (1564−1613) の 作曲。マイン グミュト イスト ミア フェアヴィレト (我が心は千々に乱れ)。歌詞は作者不詳で、ハスラが付曲し 1601年に出版した。この旋律を宗教曲に初めて転用したのは クリストフ クノル (1563–1621/1630) 作詞のコラールへの付曲で、ハスラの作曲から10数年後に出版のハルモニエ サクレ (聖なる調和 1613年 ゲリツ) に収録。歌詞は ハツリヒ トゥト ミヒ フェアラングン (我 心より 焦れ望む 1599年作詞)。このコラールも広く普及した (JSバッハのコラール編曲 BWV.727 ほか)。 Pゲアハルトの歌詞で別のコラール 血潮滴る主の御頭 になるのは 約半世紀後。そこから更に 70年後にJSバッハ作曲 マタイ受難曲のコラール編曲が誕生、更に Pサイモンまで 250年の 果てしも無い経緯。歌詞は中世、旋律はルネサンスのヨーロッパを起点に1970年代の米国まで逢着する事になった。

受難曲の枠組から見て

 で、Pサイモンから 250年前の時点での文脈として、受難歌謡 血潮滴る主の御頭、この受難歌の第5節、第6節、第1/2節、第9節をJSバッハは 受難曲 (BWV.244の) 第22曲、第23曲、第63曲、第72曲にコラール編曲、オペラ (歌劇) 並みに大規模な造りの この音響作品の中で 劇作上 最も重要な分節点に正確に配置し、中世に起源をもつ文学とルネサンス音楽の遺産を統合して バロック後期の壮麗な受難曲を仕上げた。まともに古典音楽を聴き始めたのは二十歳を過ぎてから、受難曲は三十歳の 少し手前、一方で アメリカン テュンは音源即時に近く 二十歳以前なので 時系列が生み出す驚愕は大きかった。
 米国フォーク再生運動の最盛期からは既に外れ 低迷期入り口の多民族国家の祖国愛がテーマだった筈の音楽が 輻輳する歴史の様相の下 読み取れなかった音響と詩語の詳細を照らし出した。これは 1970年代に生きる米国人の受難曲なのだ。そこから始まらなくては ここにある音楽は 詩語も 音響も仕組みとして成り立たなくなる。アメリカン テュンの詩の解明に至る端緒は そこにある。

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