1973年の現代史③
ポル サイモンがユダヤ教徒だったか、敬虔だったか 判らない。しかし (2024年末時点で) 最後に制作した音源は 七つの詩篇 (Seven Psalms, 2023)、信仰に無縁の人間とは思われない (未聴。テキストは英語らしい。それでも内容的に この詩篇は (ユダヤ教/キリスト教旧約) 聖書の詩篇と推定する)。
1960年代の米国 (英国) フォーク再生運動は 伝承音楽の復興を音源制作の基盤技術とした。スカバラ フェア、エル コンドル パサを始めとして Pサイモンにも 同じ手法で制作した音源は多い。しかも Pサイモンの場合は 音源制作を高度産業化した ブリル ビルディング サウンドでの技術集積を背景に、テキスト制作/音楽制作と音源編集を統合した音源制作技術の水準は 1960年代後半以降 群を抜いて高かった (アメリカン テュンを聴いて 特にそう思う)。
アメリカン テュンの制作時 (1973年) Pサイモンは 30代初頭 。デュオとしての新音源制作は (ライヴ収録を除いて) 既に終わり、以降はソロ ミュジシャンとして制作した。時代はRMニクソン大統領時代 (1969〜1974年) の 終盤に近い頃。(アフリカ系米国人) 公民権運動 (1954〜1968年)、ヴェトナム戦争 (1955〜1975年) は 米国が掲げてきた建国の理想を覆し、無邪気に国歌 (アメリカの歌) を謳っている時代ではなくなっていた 。ジミヘンが星条旗を弾いたのは 現地時間 1969年08月18日 朝の事。その01か月前にアポロ11号は月面に着陸 (人類初) したが、米軍はヴェトナムから撤退を始めた (冷戦からデタント (緊張緩和) へ)。1971年の後半は国内経済がスタグフレションの危機に陥った。ニクソン政権は経済/軍事の両面で 強い米国の時代の終焉を知らせていた。
アルヌルフス ロヴァニエンシスの宗教詩は 1250年頃の制作。ハンス レオ ハスラが基本旋律を楽譜に記録したのが1601年 (この時はラヴ ソング)。アルヌルフスのラテン語詩の第7部をパウル ゲアハルトがドイツ語歌詞に翻案、ヨハン クリュガがハスラの音楽を編曲/付曲して受難コラールが成立したのは 1656年。この受難コラールを編曲して JSバッハがマタイ受難曲の骨組みとして流用したのが 1727年。PサイモンはJSバッハが編曲した受難コラールの音楽を基にアメリカン テュンを作曲した。ベースにしたとか、基にしたとかではない。1960年代の米国フォーク再生運動の音楽様式でソロ歌唱用に編曲したと云った方が近い。Pサイモンが流用したのは 音楽だけだったろうか。
ラテン語詩はキリストの受難を磔刑の身体の御足、御膝、御手、御脇腹、御胸、御心、御顔のそれぞれに寄せて解き明かす大作で全7部。サルヴェ カプト クルエンタトゥム (憐れ 血塗れの御頭)で始まる最終部は各連10行 全05連50行。ディトリヒ ブクステフデの連作カンタータ BuxWV.75 第7部では アルヌルフス制作 ラテン語詩の第1連前半 (05行) と最終連 (10行) つまり 行数で30%に付曲したにとどまる。同じ部分をドイツ語で翻案したPゲアハルトの受難歌 血潮滴る主の御頭は各連08行 全10連80行の これも大作。JSバッハは この受難歌の半分 (詳細は 1973年の現代史①) を5曲に分けて受難コラールに編曲し 大規模受難曲の要所に配置した。この引用の構造自体に意味がある。Pサイモンも当然 承知していた筈。というか、この技術を使った。
大凡の誤解を前提に手短に煮詰めれば マタイ受難曲は 死を境界に 冤罪の犯罪者が神に (人間の悲惨が神の栄光に) 転換していく奇跡を描いた音楽劇。Pサイモンは この大枠を援用して 米国の受難を表現した。ただ 米国は神でも 犯罪者でもない。アメリカン テュンの第3連は死がテーマ。そして 自由の女神像 (世界を照らす自由=自由と民主主義の象徴) は 米国を見捨てる。第1連/第2連の悲惨が第3連を境界に栄光に転換していくか。歌詞では 永遠に祝福される事はないと表明している。それでも 明日は仕事の日、だから 休息が必要なんだ。1973年の米国には休息が必要だった。