【翻訳】ナイーブではないリバタリアニズムはローカリズムに帰結する
アメリカ合衆国の精神は自由である。現在のアメリカの政治状況では、この精神がどのように持続するかはわからない。特に、どのような行動が他人の自由を妨げるとみなされるのかについては意見が一致していないようだ。
個人的には、この国の自由の精神を維持し、復活させるためにできるだけのことをすることに強く賛成している。
これは建国の父たちが取り組んだことであり、私たちが今も取り組んでいることでもある。
そしてこのことは、この問題を「自明なもの」と認識し、真の「リバタリアニズム」となるような包括的な一連の政策(またはその欠如)を想像するリバタリアニズムの形態の不十分さを理解する手がかりとなる。
私がリバタリアンやリバタリアニズムの議論に興味を持った理由は、リバタリアンの哲学を適切に検討すると、それが(マルチスケール)ローカリズムにつながるからである。そして、これこそが自由への道だと私は考えている。
個人的な自由だけでなく、集団的形態の自由もそうだ。
この「集団」という言葉は、ほとんどのリバタリアンにとってアレルギーとなっている。
しかしこの問題は、認識論的な不確実性という理由以外であれば、タイヤが道路に合うようにするために彼らが対処しなければならないものである。説明しよう。
私は、次のことがリバタリアン哲学の基本的な前提であると主張する。
すなわち、自由はそれ自体が善であり、自由とはその行動が他人の自由を減らさないという制約の下での選択と行動の自由に相当するということである。
「私の鼻に当たらない限りにおいて、あなたは自由に自分の拳を振り回しても良い」という格言のように。
これは非常に大きな制約であることをまず指摘しておこう。私たちは常に他人の行動にさらされており、通常はその逆もまた然りだ。
他人の自由を妨げる行為は数多くあるが、リバタリアンの倫理観ではそれらを許容することはできない。
「自分がしたい時にやりたいことをする」ようなリバタリアンは本物のリバタリアンとは言えない。
これらは典型的な「反国境(=無政府資本主義者など)」のリバタリアンと同じで、絶対にあり得ない考えだ。詳細は以下の通りである。
明らかに、リバタリアン政策の課題は、不確実性に入り込んだときに、何が他人の権利を侵害することになるかを決定することにある。
何が他人の権利を侵害しているかという問題に最終的な答えはない。
COVIDを例にとると、感染の可能性のある人がマスクをしないで店に入ることは許されないという主張は、リバタリアンを標榜する多くの人には馴染まないものである。
しかし、これは「自分の行動が他人を侵害してはならない」という考え方に合致しているように思う。
マスク着用という制約を尊重するのであれば、他人は病気になる危険性を過度に排除して店を楽しむことができるのではないだろうか。
何が行動可能な外部性を構成するのか、つまり、他人の自由を守るために強制的かつ力強く介入するに値するレベルに達するものは何なのか、このような不確実性は、「純粋な(真の)」リバタリアニズムが存在しないことを意味している。
私たちは常に不確実性と戦っているのだ。
そして、それはローカリズムへと導くのに十分なものとなる。
唯一の政治的解決策は、私たちがおよそ望むところに線を引いてくれる人たちと政治的構造を共有し、線の引き方は違っていても、同じことを並行して行っている人たちを容認することだ。
これが先に述べた集団的自由であり、それには境界線や境目が必要となる。
地域社会には個人の総和を超えた個性があり、それを尊重すべきなのだ。
アメリカでは、最も特異な集団的協約を代表する地方自治体から、広範で少数の基本的な協約のみを代表する中央政府へと続くような仕組みになっている。
私たちは、構造的にはともかく、行動的には明らかにこれから遠く離れており、同質の政治体制を実現しようとすると、平和な生活がますます困難になってしまっている。
しかし、与えられた構造を利用しよう。まずは州ごとに、そしてさらに地域ごとに自分を分類する。そして自分の属する部族を見つけて、その人たちと根を張る。それが調和への道となるのだ。
あなたがこの世界で見たいと願う自己組織化を作り上げるのである。
これからの時代を「州をベースとする時代」にしようではないか。州は主権を主張し、中央集権化の波を押し退け、国民を真に代表しているのだから。