公文式
中学年くらいから公文で英語を始めた。きっかけは、いつも一緒に外遊びをしていた友人が公文に通い始め、誘われたからだ。算数・国語を体験することなく、すぐに英語に入会した。
この頃から英語ができたわけではないが、英語への興味は半端なかった。当時、英語教育は小学生にはなかったが、ローマ字を読んだり書いたりする国語の授業があった。
字幕の映画を多く見ていた私は、とにかく英語に興味があり、公文での英語を始めてすぐにその楽しさを覚えた。通常1日あたり5枚を宿題として渡されるが、その枚数ではすぐに終わってしまうことが物足りなかった私は、1日10枚かそれ以上を求めて続けた。
そのうち、センテンスの日本語訳を書いていく段階になり、公文式の英語辞書を持たされるようになる。辞書で新しい単語の意味を理解していくことが楽しくなる。
小学生のうちは英語の科目自体がカリキュラムに存在していないので、テストで発揮はできなかったが、中学1年に入ってから学び始める英語は、簡単すぎるくらいのレベルまで公文で学習した。
公文は、当時、国語、算数、英語が主流で、フランス語とドイツ語もあった。私が浪人後に留学をしたアメリカにも公文は浸透していて、どの地域に行っても公文の看板を見かけた。公文とヤクルトは全世界にあるイメージである。
公文は、一方通行の学習でもあるため、ダメな学習法とケチをつける人もいるかもしれないが、ビジネスモデルとして優れていると私は感じている。
学習塾を見てほしい。私立難関校を目指す学生だけでなく、学校での中間・期末試験で上位に食い込むためだけにも、学習塾に通っている学生は、少子高齢化となってからも多い。
学習塾と公文の唯一の違いは、学習塾は「教わる」教室で、公文は「自習」教育であるところだろう。公文の先生は、丸付け専門。子供が分からない時はちょっと助け舟を出すものの、基本的に、決まった時間帯に、決まった先生が、決まった教科書の範囲を教える場ではない。
学習塾は、難関校を突破するために何名もの教員が必要だろう。しかも、教材も毎年微妙に更新されるため、コストもかかることだろう。公文は、少なくとも私が小学生の昭和の時代から令和まで、科目数が全く同じ。しかも小学生は1科目あたり月7000円強、複数科目履修しても割引は一切ないという強気の姿勢。それでも、生徒は確実に一定数いる。
公文の特徴は、反復学習で自主性に重きを置いた学習。一つのレベルを完了すれば、一旦進級テストが行われる。このテストで不十分であれば、もう一度同じレベルを履修する。ただテストを迎えるまでにも、そのレベルの全てを2周くらいは最低でも繰り返すので、嫌でも記憶に残るし、計算も早くなる。
公文だけで難関校に受かるわけではないが、基礎固めには決して悪い体験ではないと思う。数学の本質は、計算が早く正確にできることではないことは、誰もが理解しているが、少なくともロジックを展開する中で必要な計算に時間をかける必要がなくなるというのは、貴重な時間の節約にはなると思う。
社会に出れば、取り扱いの金額も大きくなるため、通常計算機を使うことばかりなので、暗算などする必要はなくなるものの、モノを考える上で、またお客様との商談の席で、即座に仮説を立てる際には、公文での計算力と大学で培ったロジックなどを組み合わせることで、より瞬間的なやり取りが可能になるとは思う。
私は、部活を中学で始めたので公文は辞めることになったが、今思うと最後までやっていても良かったかなとは思う。留学とアメリカ生活も長かったので、英語は話せるようにはなったけど、帰国して未だにTOEICや英検などのスコアを入力する必要があるのを見ると、未だに日本はグローバル化できていないということを思い知らされる。
公文を「意味がない」と言う人は一定数いると思うが、公文の内容がどうであれ、こんなシンプルなビジネスモデルを、世界中に展開させていることが凄いことであると思う。公文を否定するなら、まずは誰でも知っているシンプルなことを世界に広めてからバカにしても遅くはないと思う。