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人間は思った通りに行動する
これが、私が大学の5年間で身に着けた最も大事な本質である。これは、生きていく上でも重要であるし、仕事の上でも非常に重要である。誰が聞いても「そりゃあそうだろう」と馬鹿にするだろうが、真理を理解できていない人は多い。
年配の方からよく聞く代表格は
「年取ると新しいことを覚えてもすぐ忘れちゃうんだよ」
と新しいことにチャレンジをしない人は沢山いる。年を取ると忘れっぽくなるかもしれないが、若くても今日学習したものは、寝れば8割方忘れる。では、年配の方は、何割くらい忘れるのだろうか? 差があったとしても大差はない。
仕事をしていれば、会社に対しての不満が出てくる。こんな会社辞めて自分で起業した方がましだ、と思う人の中で、まだ起業していない人は数知れない。起業しようとも思ったはずだが、思いとどまった不安なことがいくつか頭をよぎっているはず。
「起業するだけの十分な予算がない」「営業はできても商品開発が出来ないからな」「財務の知識もないし」「銀行からお金借りられない」など、数え上げたらきりがない。思ったことを全て実現してから起業すると「思って」しまっているなら、これだけのリソースは起業前に揃うことはないだろうから、起業も一生発生しないことになる。
そうやって人間は、正論を振りかざすも、実際に行動に出ている人も少ないのである。成功した人は、「何もなかったけど、毎日1歩ずつ踏み出した人」である。起業したけど売り上げが出ていないと周囲は思うかもしれない。しかし、起業すらしていない人よりかは、一歩ずつではあるが、差をつけているのは間違いない。「思う」ことが「成功」の鍵であって、「思い」さえすればいいのである。
私は、アメリカ在住時、うだつが上がらない社会人だった。それは、バンド活動を優先した生活を選んだからである。「プロになって凱旋帰国したい」と思い続けていた。実に若気の至りである。
その代わり、音楽活動に関して、本格的に活動をしたバンドでは、メンバーも固定し、レコーディングの質もかなり上がり、メディアキットの質としては、かなり上々なまでに仕上がったのは確かである。「そうならないと」と思っていたからである。
また、バンドを諦めた後、営業という仕事に集中する様になったが、年収がなかなか自分の希望へ近づかない。そんな状態でも、「いつかこういう状態を抜けてやる」という思いだけは続けた。
当時、骨を埋めるつもりだったので、自分の持ち家を買おうと物件を見てみたが、日本のように4000万円台の不動産がそもそもない。あって、5000万からで、当時の自分の年収から、その住宅ローンは借りられなかった。その時も「いつか持ち家を買ってやる」という思いだけは捨てなかった。
結局、アメリカでの人生は、更に悪化の一途をたどることになる。悪化することなど一度も「思った」ことがなくても、人生は悪い方へ転がっていく。その中で、「40前には帰国して再起を図りたい」と考えていた。自分のその時の人生も、「どうやったらリセットできるだろうか」思い悩んでいた。
すると、転機が訪れる。当時、結婚をしていたが、前妻は帰国を望まなかった。それも自分が帰国することは叶わないのかと思っていた理由である。しかし、離婚をすることになったのだ。その時から帰国を視野に入れることが出来たのだ。
思い続けていたことが、とある偶然により、実現可能となってきたのだ。
当時は、離婚、日本の転職先探し、引っ越しという大掛かりな課題を同時に抱えていた。パンクになりそうだったが、一つずつ解決しようと「思った」。
まずは、引っ越しから。今まで一人で暮らすということが一度もなかった。必ずルームメイトがいたので、自分一人で暮らすための物件を探すのは初めてだった。物件を探しに行き、引っ越し先を決める。決めた時点で、一人での引っ越しは無理だということに改めて気づく。
大学の同期に電話をして、引っ越しトラックを借りて二人で引っ越しを敢行することにする。難関は大きめのカウチだ。引っ越し先は、階段しかない。ちょっとした螺旋式階段。そこには、どうみても長過ぎるカウチを上まで運ばなければならない。二人で縦にして引っ越し業者のように階段をゆっくり昇っていく。
ドアの前に到着したが、横のままでは入らない。ここでも縦斜めにしながらゆっくりと入れていく。アパートの部屋は、金額の割に広い。アメリカのアパートの特徴と言えるだろう。その広く見えるリビングには、カウチしか置くものがない。テレビはあるが、テレビ台はないため、床置きのままだ。どうせ見ない。
ベッドルームにもベッド以外は、箪笥が一つあるだけ。それ以外のものは何もない。ダイニングには、ダイニングテーブル。その上に、デスクトップのPCを置く。それですべてだ。モノは少なかったが、家具が大きかったためにトラックを借りなければならなかった。
こんなことも「思」わなければ、先延ばしにしていただろう。もっと言うと、引っ越しをしていなければ、帰国をすることも考えなかっただろう。
次は、日本での転職先探しである。一時帰国をして、見つかり次第、帰国を決めようと「思」った。まずは航空チケットを買って帰国日を抑えれば、その日に向かって転職エージェントと面接の段取りを決めることができると「思」った。そこでチケットを抑える。
転職エージェントへの積極的なアプローチを始める。決まった帰国日に合わせてエージェントも動いてくれた。時は2013年だ。この時代、スカイプはあったものの、スカイプ面接というものが主流ではなかった。対面しか頭にない時代でかなりの時間を無駄にしたと思う。スカイプ面接を事前にしていれば、一時帰国は最終面接に合わせることが出来ただろうに。
帰国後、セッティングされていた面接をこなしていく。一つ、最終を残すのみとなった企業があった。最終面接の相手は、海外の上司に当たる人である。しかし、この方との日程の調整が、日本滞在期間内に出来ないことで、この採用は見送りになった。同じ見送りになるにしても、スカイプが使えれば、どれ程、時間を節約することが出来ただろう。
結局、一件も最終面接に通過しないまま、一時帰国を終えてアメリカへ変えることになる。その時に腹は決まった。帰国を決めてしまおうと「思」ったのだ。こう思ってからの行動も早かった。3ヵ月先に、完全帰国の航空チケットを手配した。
引っ越して8ヶ月程度のアパートを引き払い、戸建てに住む知り合いの地下部分を間借りして、帰国までの仮住まいとしようと決めた。そこへ引っ越す際には、多くのものを処分した。ダイニングテーブル、デスクトップPC、カウチ、ベッドのフレーム、テレビだ。
処分する時は、同期を呼ばなかった。ベッドのフレームは、分解してアパートの粗大ごみの場所に運んだ。問題は、カウチだ。上に運ぶときは二人がかりで運んだが、それを一人で下まで降ろさなければならない。大きなカウチを縦にして、何とか階段の手すりを利用して、滑らせて下の階まで降ろしていく。管理人に見つかっていたら、持ち帰れと言われていたはずである。幸い不在だった。管理人がいない間、全ての粗大ごみをアパートの外へと運び出す。
家には、スーツケースとマットレス以外は残っていなかった。これで、仮住まいへの引っ越しの準備が完了した。アパートを引き払う際には、鍵を管理人へ返さなければならないので、管理人の部屋へ行く。その時に粗大ごみの件について指摘を受けた。ダメだとは思ったが管理人が不在で電話にも出なかったので、どうしようもなかったと伝えた。とは言っても、結局彼が処分をしてくれたので感謝している。
実は、離婚、戸建てからアパートへ引っ越し、一時帰国で転職活動、仮住まいへ引っ越し、帰国の手配、会社でのパワハラということが同時に起きていた。順番に来てくれれば、気持ち的に楽だったが、同時に来たので最初は圧倒された。しかし、現実を受け止め、「思う」ことにしたのだ。「一つずつ片づける」ということを。その「思い」が私を動かしてくれた。