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父への手紙 18 保育園の送り迎え
両親が共働きだったので、保育園に通っていたが、ごくたまに父が休暇を取った時には、自転車で保育園まで送り迎えをしてもらったことがある。
片手で数えられるくらいの回数である。
もともとは、兄同様に幼稚園に通っていたものの、途中から母が働くようになったか、あるいは途中から保育園に空きが出て通えるようになったかどちらかの理由で、保育園に変わったと記憶している。
普段は、母が車で送り迎えをしてくれていた。
早番と遅番があり、遅番の時は、いつも私が最後に迎えが来る生徒だった。
ライブで言えば、トリを常に演出していたのが私だ。
そんな私は、この頃から周りの同級生が前座に見えていたのかもしれない。
母による送迎は、車中の川中美幸に始まり、川中美幸に終わる。
車の中で常に流れている演歌歌手であり、いつでも「ふたり酒」が流れていた。
私は、高校からバンド活動を始めるのだが、よく川中美幸の世界からメタルのドラムへ転向できたものだと、未だに感心する。
親和性がなさすぎるところを見ると、私は車中の音楽の影響を微塵も受けることはなかったのだということに気づかされる。
父は、生まれながらのローテク。
勿論、車というテクノロジーも父の前では無力で、全く相手にされなかった。
父の前に、「便利」や「効率性」を掲げて戦う戦士達は、父の頑固さと無知の前では無重力に近かったと言えよう。
そんな父が私を保育園に送迎に行くのは、もちろん自転車なのだが、この速度がかなり速い。
母がこぐ自転車の後ろになれていた私は、父がこいだ時のあの音速の感覚が新鮮で、未だに鮮明に覚えている。
父が学生時代に登山部だったことは知っていたので、そこそこ足腰は鍛えられているのだと思っていたものの、どのスポーツをやっても、うだつの上下のお話をさせていただけるなら、上がりはしなかった。
スポーツが苦手なのかなと思っていたほどだ。
ただ、我慢強く、体力も決してないわけではない。
読者の方々が想像しやすいように例えで表すと、現役時代はスタメンだったけど活躍はできていなくて、いくつかのチームに移籍をして、名前を知られる前に引退した後、弱小校の監督を依頼され、地元への貢献として承諾。
そこで才能が開花し、全国大会出場にまでチームを育て上げる。
そんなタイプの人材だったと思う。
父には、誰もが見てわかるような才は持ち合わせていないものの、自転車の後ろに乗った人なら分かる脚力の持ち主であり、自分では再現できないけど、理論上の勝ちパターンなら展開できるという能力はあったと思う。
就職面接で、面接で感じた通りの実力を持っている人と、一緒に働けばその能力に驚くけど、面接では通過できるだけの武装をしておらず毎回敗れるタイプの人がいると思うが、そういうタイプだったと思う。
父への手紙
親父は覚えていないと思うが、保育園への送迎の数が少な過ぎた分、別の言い方をすると、あまり子供に関心がなかったが故に、一回の出来事が稀に起こる奇跡と同レベルで、記憶に残りやすかった。
この手紙の中で、親父とのかかわりが少なかったうちら兄弟が、特に私は留学をしてから、そのまま現地に残り、最終的には17年間日本を離れていたわけで、学費を除けば、一番親父との接点が少なかったはずだ。
その私の記憶に「飛ばし過ぎな」自転車の運転が鮮明に残っている。
今、自分に娘が出来て、車がない時には、自転車の後ろに次女を乗せて、図書館へ行くときに、超高速で走っている。
次女も最初は怖がっていたものの、今ではそのスリルを楽しんでいる。
読書好き、図書館好き、自転車光速に関しては、遺伝と言わざるを得ない。
親父は、一つの企業を勤め上げて経営者にもなった。
私としては、そこの遺伝子が自分にこっそりと引き継がれていて欲しいと思っているものの、また転職を迎えました。
親父がテニスとゴルフで見せてくれた、努力してもなかなか日の目を見ない才能が、私のキャリアパスに転移したようです。