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不登校になったキッカケ(後編)
前回の記事の後編になります。
こちらはトドメとなった出来事です。
前回に引き続きですが、これは私が経験した事、思っている事を綴っているので、現在も似たような立場、経験によるもので悩んだりしている人たちへ似たような事を経験した仲間がここにもいるよという認知に繋がれば幸いだと思っています。
なくなる居場所
前回、私が嫌いだった先生に追い打ちをかけられたという話で終わりました。
その後の話です。
同じクラスの皆からは無視され、他のクラスで笑いものにされ、私はその後から教室には行けませんでした。
もう、私の事を指さして、周りが皆笑っているようにしか見えなくなったからです。
詳しくは話せませんでしたが、親にも学校が辛いという話をしました。
ただ、当時は不登校への理解もなく、寧ろ私の住んでいるところでは当時、不登校は人間扱いされない状態でした。
私には兄が二人いますが、下の兄が小学校ではいじめを受けていたそうです。
「下の兄はどんなに辛くても学校にいったんだから、お前もいきなさい」
と言われて終わりました。
私は、教室にはどうしても行きたくないと思っていて、当時は保健室に逃げ込む事もありました。
それで、保健室の先生にお願いして、午前中だけで返るという日を時々やっていました。
私が返る準備を教室でしていると
「あれ?グロウ君返るの??どうして?体調悪いの?気を付けてね!」
と、返る時には必ず誰か声をかけてきました。
その時は、無視されていたけど気にはしてくれてるんだなって思い、次の日は通常通りやりましたが、やはり無視されて終わりでした。
確かめるために、その次の日にはまた早退…すると
「あれ?グロウ君返るの??何で?大丈夫??」
と、明らかに白々しく、大きな声で。
次の日は通常通りやって、やはり無視。
これで確信しました。
わざと目立つようにやっている、晒上げの為にやっているのだと。
私が今まで、どれだけ声をかけても無視だったのに、一番声をかけてほしくないタイミングで、目立つように大きな声で、白々しく気遣うようにしてきたので、私はそう感じました。
その日以降、私は教室に行きたくない旨を保健室の先生に話し、保健室登校することを親にも伝え、それでも学校には行く事で親は納得しました。
保健室登校している人も先に一人いたので、話はスムーズに進みました。
保健室の先生も「辛かったらいつでも来なさい、ここにもう一人保健室登校してる人いるんだから、気にしなくて良いんだよ」と言ってくれて、私は何とかこれで、学校には通えると安堵していました。
でも、それが続いたのは1日だけでした。
その1日だけ、私は学校からフェードアウトしなくても良いという希望に満ち溢れていましたが、その次の日、その幻想は崩れ落ちる事となります。
翌日、もう自力で登校する力も残っていなかった私は、当時元気だった祖母に車で送ってもらい、学校に裏口から行きました。
保健室登校をするという事で学校に話しがいっているので、スムーズに入れました。
保健室の先生も迎え入れてくれて、やっと安心して学校に通える…ここから頑張っていきたいと思っていたその瞬間、保健室の先生から信じられない言葉が…。
「ここはあんたのいるべき場所じゃないんだから、元気になったなら教室に帰りなさい」
この言葉を聞いて、私は壊れました。
どういうつもりだったのかは知りませんが、私が一番聞きたくない言葉でした。
その日、教室に戻ったのか、保健室にいたのか、早退したのか、何も覚えていません。
その日を家でどのように過ごしたのかも、どう会話したのかも覚えていません。
その次の日の朝、酷く体調を崩し、学校にも間に合わない時間までお腹を痛め、ずっとトイレに逃げ込んでいた状態で、親から「そんなに痛いなら病院いくぞ」と言われ、病院に行ったら、そういう事じゃないとバレてしまうからか、私は観念して学校に行く準備をしました…。
祖母に乗せられ、何とか学校に到着、そこで私は抑えていたものが壊れてしまい、祖母に対して「学校が怖い、行きたくない、(車から)降りたくない、降りるくらいなら死にたい、殺してほしい、もう嫌だ、死にたい」と泣きながら訴えました。
祖母はそれを聞いて「そんなところに行かせるわけにいかない」と、涙ながら家への道を引き返してくれました。
私を連れ帰ってきた祖母を見て、母はとても憤りを感じていましたが、祖母が庇ってくれたおかげで、私はこうして生きる事が出来ています。
「自分の子供なんだから、どうすれば良いか親であるあんたが考えなさい」
と、祖母が母に強く言ってくれたのを覚えています。
その日の夜、私は家族が全員そろってから、晒上げにされました。
父からは「何でお前はそんなに頑張れないんだ」と泣かれ
母からは「どうしてこんな事になったんだ」と責められ
上の兄からは「兄弟の中で一番出来が悪い」と言われました。
下の兄は唯一、私に対して何も言いませんでした。
学校からも拒絶され、家族からも否定され、当時は自分に対しての失望感と、わかってもらえなかった悲しみで胸がいっぱいでした。
ただ、この家族からの否定と引き換えに、私は学校に行かなくて良くなりました。
私はこの時、自分に呪いをかけました。
「自分は他の人より劣った存在であり、存在してはいけない恥さらしであり、家族の恩情で生きさせてもらっている、極悪非道の屑人間、本来なら生きてる価値のない人間で、頭がおかしい」
と自分に言い聞かせる事で、人と違うから、劣っているからと、そう思わないと頭が狂いそうでした。
私は、生きるために自分の中の頑張っていた自分を殺そうとしたのです。
その呪いは今も尚、私を蝕み、苦しんでいます。
これが、私が不登校になったキッカケの大まかな全容です。
まとめ
・保健室という安息の地は、実は幻だった
・それがキッカケで学校と決別した
・家族からも否定され、生きるために呪いをかけ、今も呪いと戦っている
ここまで見てくださって有難うございました、長くなってしまい申し訳ありません<(_ _)>
今は、この呪いという泥の中に埋もれた自分を見つけ、抱き留めて「お前は良く頑張った」と認めてあげられるよう、私は今日も戦っています。
今も時々、猛烈に寂しく、悲しく、怒り狂い、壊れそうになってしまう事もありますが、いつか自分を認められると良いなと、思っています。
学校だけが世界の全てではありません。
もっと外の世界を気軽に知れる世の中になる事を、学校という基盤がありつつも、それだけが選択肢ではなく、別の生き方や道があるという事が、もっと認知され、学校に行けない子達、いけなくて悩んだまま大人になった方々という存在を、もっと受け入れられる世の中になっていく事を、心から願います。