フイルムケースとダンゴムシ
ひしめき合う家族
子供の頃、どう考えても築40年を超えるような木造アパートで、
家族でひしめき合って暮らしていた。
うちにあるもの。
それは、大きな三脚。
それから空のフィルムケースがたくさん。
押し入れはいつも機材で満タンで、
私たちのおもちゃを入れる隙はあまりなかった。
子供の頃の運動会は、
スポーツカメラマンが使うような、
とてつもない長いレンズで、
運動音痴の私がビリになる姿が見事に撮影された。
私の好きな遊びは、テント遊び。
三脚を最大限に伸ばして、毛布を昔のインディアンのテントみたいに覆う。
そして懐中電灯を即席のテントの中心に吊るして、
中でくつろいで本を読むのが大好きだった。
三脚は長く伸ばすと、大人の身長より高かった。
フイルムケースは膨大にあって、
そこにおはじきを入れたり、コインを入れたり、
狭い狭いベランダで唯一採集できる虫、
ダンゴムシを捕まえて入れたりしていた。
今考えると、虫が怖い人はびっくりするだろう。
フィルムだと思って開けたらダンゴムシが出てきたら。
トンカツと現像液
大人になっても、思い出すことがある。
それは、トンカツなど揚げ物を揚げる時に、
小麦粉、卵、パン粉と並んだバットを見たとき。
私は現像液の酸っぱい匂いのことを懐かしく思う。
現像液、停止液、定着液、水、とバットが並んでいて、
赤い怪しげな光の中で、モノクロの像がじんわり浮かび上がる瞬間は、
印画紙に命をふきこむようで、魔法のようでもあり、
子供だった私は当然、目を奪われた。
暗室作業中は部屋を開けてもらえないし、
部屋に入れてもらえたとしても、
いざ作業が始まったらしばらく出られない。
大きな引き伸ばし機の存在はガンダムみたいでカッコよかった。
あの液体の中のどれがあんなに酸っぱい匂いだったのかわからないけれど、
我が家の暗室になっていた部屋にはその匂いが立ち込めていて、
赤い照明とともに異様な雰囲気だった。
紛れもない「大人の部屋」という感じがした。
「写真」との長い付き合い
「写真」には、何よりここまで育ててくれた恩義もあるし、
同時に苦労させられた恨みもあるし、
さまざまな経験をさせてくれた懐かしさも、
恥ずかしい思いをさせられたことも、楽しさも悲しさも、全てがある。
「写真」って私の一部であり、他の何よりも特別。
「いい写真」がなんなのか、
わかったような気もしていたけれど、
これからも自分なりに探していかなきゃいけない。
「祈る」撮影者に寄り添う
写真を撮られると、私が古くなる、
と歌った人がいるけれど、
写真は、
過去の一瞬を今に呼び込んでくれる力を持っている。と私は思っている。
こういう写真を見ると、あの平凡で取り止めのない、
それでいて言葉で表現しきれないほどに幸福な、あの日々が今に呼び込まれる。
あれから私たち家族には、少なからずの絶望があり、
苦難があり、別れも出会いもたくさんあった。
写真を見ると、思い出を今に呼び込むと同時に、
どうか、このままいさせてという、
祈るような気持ち、撮影者の願いが伝わる気がする。
写真を撮る行為は祈りに似ていて、
写真を見ることは、
被写体だけでなく、
撮影者の思いや祈りに寄り添うことなのかもしれない。
以前、「いい写真は愛がある」というようなことを書いたけれど、
「このままいさせて」と、一瞬を慈しむ気持ちが思いが愛なのかもしれない。