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スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』と、橋本治著『巡礼』を読んで思うこと 〜根気よく寄り添う最後の1人になる勇気〜

スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、『グレート・ギャツビー』を読んで思うこと


物語の内容に触れています。ネタバレにご注意ください。

物語の流れ

大金持ちのギャツビー氏は、毎夜盛大なパーティを開く。たくさんの呼ばれてもいない人ですらパーティに押しかける。そして、誰もギャツビー氏の本当の経歴などは知らない。

物語後半、ギャツビーは人間関係の拗れの中で、ある男に殺されてしまう。

パーティにはたくさん人が押しかけたのに、
弔問客は、彼の父親と、主人公のニックだけ、という有様。

孤独とは

この本には、孤独が描かれている、と思った。
そして、こんな一文が記憶に残った。

ーなぜなら、彼に少しなりとも関心を抱いている人間は、僕の他にはいなかったからだ。ここでいう「関心」とは、人はたとえ誰であれ、その人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべきだという意味合いにおいての関心のことである。明言されておらずとも、それは人たるものの固有の権利ではあるまいか。

『グレート・ギャツビー』より

たとえ葬儀に参列する人も、
ギャツビー氏への最後のお別れに駆けつける人もいなくとも、
主人公・ニックは粛々と葬儀の手配など、するべきことをする。
そしてこの言葉。
彼の哲学を語り、「自分はそれを貫く」という姿勢。

彼は、神ではないから、
「人はかくあるべき」という明確なことは言えないのかもしれない。
でも、「人間としてこうありたい」「私はこうする」という強い意志が伺える一文だ。

この本では、ニックが、
悲しみや孤独、大切な人の死など、様々な出来事の中で、
その度に自分固有の哲学を固め、その都度意思決定をして、
成熟した人間になっていく様が描かれている。

橋本治著 『巡礼』を読んで思うこと

物語の内容に触れています。ネタバレにご注意ください。

物語の流れ

ある住宅地のゴミ屋敷が登場し、それにまつわる近隣の主婦たちの描写などが俯瞰した書き方で描かれ、中盤では当のゴミ屋敷の主人・忠一の長い人生を追っていく。

「臭いものには蓋を」マインド

ゴミ屋敷の主人、という存在は、
排除して然るべき、という社会の冷徹さに対して、思うところがあった。

ホームレスにしても、排除して、
自分の目にうつらなければ、
それでいいというマインドをこの社会に感じる時がある。

排除しても、彼らは生き続けるし、
彼らが社会の一部であることを忘れてはならない。
根気よく寄り添うのは難しいけれど、
それが我々の求める「寛容」というものではないだろうか。

味玉ヒューマニズム

私はお年寄りが好きだ。
お年寄りは、なんでもない顔をして、
実はとても文学的な過去を背負っていたりする。
その、コッテリとしたチャーシューのタレに漬かった味玉のような人間性、
ヒューマニズムがたまらなく好きだ。

この本は中古の通販で購入したのだが、
ちょっとびっくりするぐらい、おそらくヤニで黄ばんでいる。

誰が触ったかわからないし、と思えば当初は躊躇する思いもあった。

しかし、この本が与えてくれた充足感が、
コッテリとしたヒューマニズムとピッタリ合致した。

この本が、読んだ人々に影響を与えてきた、
小さいけれど意味のある旅を思い、
とてもお気に入りの一冊になった。

物語終盤の「救い」

孤独の中で美意識に社会とのずれが生じた忠一のもとに、
物語終盤、弟が現れ、根気よく寄り添う。

そして共に巡礼の旅に出る。

巡礼の旅で、初めて「生きることを決めたように見えた」忠一は、
その瞬間、仏の中に吸い込まれていく。


賑やかなのもいいけれど

この二つの物語の共通点は、
それぞれの孤独を抱えたある人物に、最後に1人だけでも寄り添う人がいた
という点である。

残されたものとして、葬儀を経験した私としては、
多くの弔問客が押しかけるお葬式も、
賑やかでそんなに悪くなかったけれど、
人生を終える時、理解者、
寄り添う人は1人でもいてくれればそれでいい。

そして、『ギャツビー』のニックや、
『巡礼』の弟・修次のように、
「この人には何がなんでも根気よく寄り添う」
と決めた人に対しては、きちんと対峙したい。

「曽孫に囲まれ大往生」というのも、うーん。
賑やかすぎるかな、と思ったりしてしまうのですが、どうでしょうか。

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