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「いい写真」の拡大考察

いい写真を撮りたいと思う。
上手い写真じゃない、いい写真を撮ろう、ということが、近頃ネット上などでよく語られている。

そういった、写真が好きな方々の文章を読んでいる中で、ある結論に辿り着いた気がするのでここで書き記したい。

いい写真、と感じるものに共通していること。
それは、被写体と撮影者の人間性または関係性が滲み出ているということだ。
言ってしまえばそれは愛なのかもしれない。小っ恥ずかしいけど。

愛を感じる写真

例えば、土門拳という作家が、炭鉱町で垢じみた少女を撮影した写真がある。
少女は指を咥えている。小学校に上がる手前ぐらいだろうか。目が潤み、指しゃぶりもなにか妖艶に写る。
この写真をある年配の友人が見た時、
「土門拳はこの写真を撮るとき、この少女に恋しちゃってるよね」と言った。
少女も撮影者である土門に興味があって、少し照れるような目でカメラの方を気にしている。土門も彼女の吸い込まれるような潤んだ目に惹かれている。
その関係性が見えた時、いい写真になるんだと思う。

別に被写体は人間でなくてもいい。

私の好きな発信者で、花を生けてその写真を撮りつづける人がいる。
その人は、写真のプロではないのかもしれないけど、その写真が絶妙にいいのだ。描写すれば、テーブルの上に花瓶があって花が生けてある、というだけのその写真には、その場の静寂や温度まで伝わってくる。静寂の中で花が生命力を持って表現しているように見える。
この時、この撮影者は、この花がいかに美しいか、それを最大限に引き出そうとしている。
つまり、この発信者はこの花を愛しているのだ。


カメラを愛するひと

写真という趣味は、カメラが好きな人がするもの、というイメージが、ずいぶん定着している時代があった。
もちろんカメラが好きでもいい。

私は作家の赤瀬川原平さん(故人)が大好きで、彼の写真集も持っているが、私が特に好きなのは彼のカメラのデッサンだ(文章も大好きだが)。
赤瀬川さんはやはり、カメラが好きな人。カメラが好きすぎて、カメラの写真を撮るだけでは飽き足らず、デッサンしちゃいました、みたいな愛を感じるのだ。

そういえば私はデッサンの授業を受けた時、モチーフを愛しなさいと言われたこともあった。

YouTubeでは

この芸術論(?)を広げていくと、YouTuberなどにも当てはまるのではないだろうか。

アウトドアやDIYが好きなYouTuberは多い。
彼らに言えるのは、「【努力】は【夢中】に叶わない」ことだとある知人が言った。
やはり好きで、愛を持って趣味を紹介されたものは面白いし、人気もある。

YouTuberで、「バレリーナ芸人」の松浦景子さんという人がいる。彼女はバレエとお笑いが大好きで吉本に所属してからバレエコンクールで日本一になった稀有な人だ。
彼女のバレエへの偏愛ぶりも特筆すべきものがある。
昔からずっと好きだったバレリーナにインタビューする時の彼女の目の輝きようは、本当に見ている方も嬉しくなる。「好き」を語られると、こちらも引き込まれる。


文章にも当てはまる


この芸術論は、文章についても言えるかもしれない。
「ちびまる子ちゃん」のさくらももこさんが、学生時代に書いた小論文。それが当時先生に「現代の清少納言」と絶賛され、エッセイ漫画を描くきっかけになった、という話がある。その小論文のテーマは、「わたしの好きなもの」だったそうだ。

そして

「好きなもの」「愛があるもの」について語ったり、表現したりすれば、自然と面白いものになるのは、ある意味当たり前のことなんだろう。

私は、好きなものに囲まれて生きていると言っていいだろう。
私の写真がいいものになるかどうかはわからないけれど、
愛を持って創作したいと思う。

写真をMacに取り込んだ時の、ワクワクを超えて、胸がいっぱいになるような、あまじょっぱい初恋のような気持ちを常に忘れずに。


これを書いて温めている間に、
幡野広志著『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』
を読了しました。
中には頷ける写真論もたくさんあったし、
全く知らずに私が実行していた
プロは誰もやらないような「にわか」技術も紹介されていて、
目から鱗でした。
この本のレビューはまた改めて書きたいと思っています。

サムネ写真は、10年ほど前に撮っていた
「朝ごはん」をテーマにした写真のうちの一つ。
ジブリ飯みたい?
朝ごはんって幸せの象徴のように思っていたのですが、どうでしょう?

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