マンダラエンディングノート~「私の人生編・明日への覚悟」要介護になったら
2017-08-01
病院?施設?グループホーム?シェアハウス?本当は自宅?
自宅でギリギリまで丁寧に暮らす。
それまでは楽しくアクティブに暮らす。
そして、いよいよ一人で暮らせなくなったら施設に入る。
そう思うようにいくのでしょうか・・・。
ここは、本音と建前が交錯するところです。
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2.病気・介護状態になったら には
Q:一人暮しになった時、どう暮したいですか?という質問があります。
認知症、寝たきり、要介護になったら、どこで過ごしたいですか?
母の住む家は早々と始末していました。
最期は、長女の私の家で過ごすことを希望しました。
が、私のパートナーの消極的な反対で叶いませんでした。
あきらめて、長男のところへ行きますが、結局、家には戻れずに、2年あまりを、病院⇒老健⇒グループホーム⇒病院⇒リハビリ病院⇒特養⇒病院で終わりました。
後悔しても取り戻せませんでした。
いつまでも、後悔と未完了な思いが続きました。
だからと言って、それぞれが自分の生活を犠牲にすることはできなかった。
一体どこに母の幸せな最期があったのでしょうか・・・。
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17年前、母が逝きました。
WEB日記に残されたその数日の記録や心のさまが甦ります。
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2004年7月31日(土) 美しい母の顔
旅立って、一夜明けて、ますます母は美しくなりました。
こんな顔をしていたんだと思うほど・・・。
病院を出るとき、娘がチークをほどこしてほんのりと赤味をさした頬と瞼
薄い口紅を引いた顔は78歳には見えない。
60代?50代?すっかり皺も伸びている。
一昨年、長年一人暮らししていた実家に夜中に車を走らせて娘と迎えに行った。這うようにして出てきた母の姿は尋常ではなかった。
何故こんなになるまで・・・。
父が亡くなった時の母はまだ60歳をこえたばかりでした。
長女の私のところへ来てほしいと願いましたが、母は、支配的な父からやっと自由になれたのだから、一人でいたいと自由を選びました。
自由というのは、責任も自分でとるということですから、自分からは決して援けを呼ぶことはありませんでした。
車の後部座席で、安心したのか、昏昏と眠る姿を目の当たりにして、不安に胸をかきむしられるようだったあの日から丸二年。母は痛みに耐えかねて苦しむばかりだった。
翌日、即入院。そして、痛い、痛い日々。リュウマチの急激な進行で日を追って行動は制限されていった。一人では立ち上がれなく歩けなくなった。
座ることも、起き上がることも、寝返りもうてなくなった。
認知症はすでに始まっていた。介護度は5だった。
3ヶ月後、我が家から近い老健へ入所した。娘と二人であらゆる手を尽くした甲斐あって6か月後、介護認定は誤認していたのでは?介護度は1ぐらいですねと言われるほどまで回復した。そして、弟の所へ引き取られていった。
家に帰りたくても、弟の家の近くに新しい老健ができた。渡りに船で入所して、それから9ヶ月。次は終の住処のグループホームに移ったその矢先に入院。
次の夏、リューマチとは別に骨の溶解が見つかった。そして、また痛いばかりの日々。もう歩くことはできなくなった。
あれほど嫌がっていた紙おむつの世話になることになった。
それでも、リハビリでよくなる。希望は捨ててはいなかった。
元気になって、もう一度、針を持ちたい。着物を縫いたいと・・・。
もっと、もっと教えてもらいたいことがあった。
なんとか元気になってもらいたかった。
3ヵ月後、リハビリ病院に転院。環境が変わる度に、認知は進んだ。
環境に適応できるはずもなかった。
性格の内向的な部分、悲観的な部分ばかりが面に出てきて、戸惑うばかりだった。
逢いに行っても正視することができず、逃げるようにして帰ってくる。優しくなれない。そんな自分が許せずに苦しかった。
痛みは軽減してても、車椅子の生活。移動もできなくなって、リハビリ病院も3ヶ月で退院。特養に移ると坂道を転がるように認知症は進んだ。
親が壊れて行く姿に向かい合う日々だった。
特養に面会にいく度に認知症が進む。
とうとう、動かすと、激痛を訴えるため、なるだけ動かさずに済むように
大型の車椅子に1日中座っているか、眠くなるとリクライニングして寝かされていた。
表情すらなくなって、そして私たちが帰るときだけは、子供のようにごねて泣いた。
介護の現場は大変なのは分かるけれど、どう見ても放置されているように見える。これでだいじょうぶなのか?施設への懐疑的な思いはあった。
連れて帰りたい!!!
けれど、ここまで進んでしまったらプロに任すか仕方がなかった。
短期間で褥創は重症となり、専門のクリニックに入院。手術しないと感染症の恐れが深刻となり、手立てを施していただき手術した。
そして2週間、高熱が続き、敗血症を併発。血液中ではブドウ球菌とキラー菌が戦っていた。ガンマグロブリンも効果はなく、まず肺も腎臓も、そして心臓が菌に負けてしまった。
呼吸が困難となり、酸素マスクの下で三日間喘ぐような息で生きつづけて、皆に別れを告げさせてくれて、そして逝きました。
この二年間、母の顔は苦痛にゆがんで、眉間には皺がきつく刻まれていました。表情は消えて、目はうつろだったり、うらめしげだったり、元の顔をすっかり忘れていました。
眉間の皺がすっかり消えている。少し笑っているような安らかな顔。
もう、痛い思いはすっかり消えたのですね。
おかあさん、よかったね。
お浄土があるのかどうかわかりませんが
こんなに綺麗な顔で行けるなんて・・・。
本当によかったね。
澄ました顔で挨拶している顔が目に浮かびますよ。
楽しそうですね。お顔を見ていたらそれが解りますよ。
明日は、お通夜、明後日、告別式等々・・・。
私たちも別れを楽しむことにしますね。