オナ禁1050日目
ふと思い立ったので、現状を書いてみる。
現在オナ禁1050日。前回記事を書いてから50日が経過した。あの記事を書いてから、ナンパはもうしなくなったし、江口禁は2回ぐらいリセットしたぐらいで、比較的安定してオナ禁を続けている。
ナンパにのめり込んだ反省から、最近は性について勉強しようと、「セクスしたがる、愛を欲しがる女」を読んだ。
性に関する男女間の差異を調査した実験の要約がいくつも乗っていて興味深くはあったが、ここでとりあげて共有したくなるようなものは無かった。
続いて、去年か一昨年に日本でも流行した「サピエンス全史」を読んだ。これがとても面白かった。それから作者のユヴァル・ノア・ハラリ氏に興味を持ち、Youtubeで対談動画など貪った。すると、彼が二十年近くヴィパッサナー瞑想を実践していて、「ヴィパッサナーなしにはこの本を書くことはできなかっただろう」とまで発言しているのを知った。
「座禅について」でも書いた通り、僕は三年ほど前から瞑想(主に座禅)に関心があり、オナ禁や精神安定のために断続的に実践してきたのだが、3ヶ月以上の期間習慣として定着させれたためしがなかった。
それからヴィパッサナー瞑想についての書籍をいくつか読み、インターネットでも調べて自分なりに1週間実践してみたのだが、これが物凄い効果があり、オナ禁についてもいくつか考察を得たので共有したいと思う。
江口はこころの汚れ
仏教では、五戒の「不邪淫戒」で「よこしまな男女関係」を禁じている(それらを控えることを推奨している)。僕の考えでは「ポ○ノを鑑賞すること」も不邪淫戒に含まれる。
ではなぜ仏教は「江口ス」を禁じるのだろうか?理由はそれによって「心の安らぎ」を得るのが難しくなるからだ。
これを読んでいる読者の方がどう感じるかはわからないが、僕はポ○ノを鑑賞したあとや、「よこしまな男女関係」を持った後にはいつも、虚無感や罪悪感・自己嫌悪の感情に囚われ後悔する。そして「もう2度とするまい」と決意するのだが、1週間後にはそんなことは忘れている。
一時期は「こんな風に感じるのは僕が繊細すぎるからだろうか」と思い悩んでいたが、仏教でこのように説明されているのをみて、こういった感情は僕個人に限定されるものでは無いことを知り、オナ禁や性の修行を続けていくよう背中を押された気分だ。
性の問題に対して男に生まれた限り、選択肢は二つある。「一時的な快楽を享受する」か「五戒を守り心の安らぎを手にする」かだ。
僕は後者の道を進もうと思うのだが「世の中には前者の道を進みつつ、安泰を得ている人がいるのかもしれない」という邪推があるのもまた事実だ。僕の決断はまだ甘く、それがオナ禁は1000日を超えているのに、江口禁は何回も何回もリセットしてしまう結果に繋がっていたのだろう。
欲求は自然な物、反応は自我が作り出した物
オナ禁をするひとは誰でも「四股りたい」という欲求に苛まれる。というより、男であれば誰でも「写生したいという欲求を持つ」と言う方がより正確だろうか。
だからといって仏教は「性欲が発生するのは自然なのだ!しこりまくれ!女を抱きまくれ!」と言わない。その代わりに瞑想は「その欲求にどう反応するかはこの私に責任がある」ということは教えてくれる。
その欲求をより強固にするのか、それとも欲求が発生したのを認めた時点で「そうか、僕の体はそれを欲しているのか」と認め、自分のなすべき仕事に再び集中するのかは自分次第だ。
この事実には僕は長いこと気づいていた。気づいていて、性の誘惑に自分の意思で何度も何度も屈していたのだ。「知ること」と「それができること」には大きな乖離がある。
最近このノートのアカウントの更新の頻度が減っているのは、オナ禁について書くことでこころを汚したくないからだ。「爺行為をしない」ということに意識を置くのではなく、自分の目標意識を置くことにした。
以上が僕が1週間瞑想を続けて得た気付きの一部だ。しかしながら、こういった気づきは文章では非常に伝わりにくく、果たして僕自身が2ヶ月後に読んでも「なにいってるんだこいつ」となる可能性は十分にある。そうならないために、1ヶ月後も2ヶ月後も瞑想を続けるつもりだ。
ヴィパッサナー瞑想はオナ禁ととても相性がよく、瞑想をすると欲求というものがどういうものかがわかります。興味のあるかたは是非実践されることをお勧めします。YoutubeやKindleでも実践のチュートリアルがたくさんあります。
皆さんにも、オナ禁や瞑想を通じて心の安らぎを得られることをお祈りいたします。