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【ネタバレあり】三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』観劇記(千秋楽)

※【ネタバレなし】の文章を書きましたが、こちらの【ネタバレあり】の文章だけでも独立して読めるように、前回と内容が重複する部分がありますが、御容赦を。

千秋楽へ


 2023年07月09日、日曜日。

三枝ゆきの・末永全 二人芝居
『カラノアトリエ』『トパアズ』
@Book Trade Cafe どうひん (西武新宿線 野方駅より徒歩5分)
2023/07/07~/07/09

 …の千秋楽、18時の回を観に行ってきました。

会場に着いて

 会場の「Book Trade Café どうひん」は、壁一面が本棚になっている、本に囲まれているカフェ。文字通りカフェのお店で、通常営業時は本を持って行けば。壁にある本とトレードできる、という趣向。
 今回はイベント会場として借り切っているため、飲食等はなし。
 その空間に、最低限の机と椅子だけが配置されているのが舞台面。
 客席も簡素で、段組がされているとはいえ。お店の椅子を使っている。
 客席に着き、椅子には当日パンフレットが置いてある。当パンとしては珍しくおられていない一枚の紙。紙質にこだわってセレクトされた「良い紙」を使っていて、上手く折ると文庫本カバーになる、とのこと。
 本番前には物販のチェキ写真の販売が行われていて、初日に比べるとだいぶ売れている様子。

最低限

 キャスト二人が客席案内と前説をかねて舞台面に。入り口には当日制作が一人。
 最低限の人数で構成された座組。
 音響こそスピーカーを使っているものの、照明は会場の地灯りだけで、音照の専任スタッフはいない。舞台監督ももちろんいない。
 今回は演出のクレジットもない。
 文字通りの「三枝ゆきの・末永全 二人芝居」。

 公演タイトル通り、二人芝居。
 四捨五入すると20年近い付き合いになる旧知の仲の三枝ゆきのさん(以下、ゆきのちゃん)。

 タッグを組むのは実力派の役者さん・末永全さん。(全さん)

 初共演した時から意気投合し、温めていた企画だそうで、公演の話自体は4年前には上がっていたそう。 台本を依頼し、台本が出来上がり到着したのが4ヶ月前、
 聞くところによると、全さんからゆきのちゃんに「二人芝居やりませんか」と持ちかけたとのこと。

演目

 前半のポエトリー・リーディング『カラノアトリエ』を、旧知の差異等たかひ子さん(ぴこちゃん・初日と千秋楽は当日制作も担当)に依頼。
 後半の二人芝居は、俺も信頼している脚本家の西瓜すいかさんが描き下ろしした『トパアズ』。

 今回初日と千秋楽2回観に行ったのは、当初は予定的に初日しか行けなかったものが、都合が付いたのもあり、初日と千秋楽の差を楽しみたいと思ったから。
 折角の、あまりにも観ておきたい座組の芝居を、1回目を観て咀嚼してから2回目で決定的な感想を書きたいと思った次第。
 客席は、初日はキャストに薦められて中列のセンターで、千秋楽は最前列のセンターかぶりつきで観劇。

 開演前にアナウンスを語り、二人はスタンバイに入る。

おことわり

 さて。
 ここから【ネタバレなし】の時には書かなかったことを、正直な感想として書いていく。
 未見の方にも、なんとなく雰囲気が伝わればいいな、と思いながら、筆を進める。

『カラノアトリエ』

 まずはあらすじをご紹介してから先に進もうと思う。
 前半の『カラノアトリエ』から。

☆★☆★☆

アトリエには
作家志望の男がひとり

理想の少女に
「君が知りたい」と問い掛ける

少女は答える

「わからない」
「だって、貴方が書いてくれないから」

アトリエにまだ産声は響かない

ノートは未だに白いまま
煙草の煙で薄汚れて行く

音と詩的独白で紡ぐ物語
『カラノアトリエ』

☆★☆★☆

 「ポエトリー・リーディングとはなんぞや?」という方はこちらをご覧下さい。
 (すいかさんの脚本、ぴこちゃんが朗読、音楽は今回の『カラノアトリエ』も担当したエムオカさんによるもの)

 『カラノアトリエ』は約20分くらいの作品。
机に向かって白い本に向ってペンを握る男。そのそばにいる白い本を持った少女。
 男は作家らしい。そして少女は彼の作品の登場人物のようだ。
 書き進められない男と、自分の言葉を要求する少女。

 「カラ」の「アトリエ」で、作家が登場人物に急かされる、というのは、作家をやったことのある人間にはわかるのではないだろうか。
 少なくとも、俺は経験がある。
 そして、突破口が見つかった瞬間、自由に彼・彼女らはしゃべり出す、そんな経験。
 そこに至るまでの逡巡を、ぴこちゃんの紡いだ言葉は詩的な表現で描いていく。

 作家は理想の女性像を一度で少女に求め、少女はたくさん書かれていくことで作家に書くことを促す。
 これもまた、俺は経験している。
 作家、と言うか、ものを作るという事をしている人にとって普遍的なテーマなのではないのだろうか。

 終盤、少女は消え、作家は歳を取り、編集者の女性が作家の原稿を取りに来る。
 ここの演じ分け・表情の使い分けが自然に、時の流れを感じさせた。

 ポエトリー・リーディングなので、作家の言葉・二人の役者、そしてもうひとつ・音楽。
 エムオカさんの音楽とぴこちゃんの言葉のタイミングと役者が発する言葉とが重なっていく。
 ゆきのちゃんと全さんの声も、苦悩する作家の憔悴と時にメフィスト的な誘惑をする少女が、ピアノと共有したタイミングの言葉(言葉の意味と音)で、怒鳴る場面もノイジーには感じなかったし、むしろ必要だと求めているような自分もいた。

 音取りはゆきのちゃんが担当したとのことだけど、さすが計算されている。それでいて、計算と感じさせない、4つの要素がひとつになって耳と目に入ってくる、白い本が言葉を持っていく瞬間たち。

 初日と千秋楽で、俺の中では印象を異にしていた。
 初日は、ぴこちゃんの言葉・エムオカさんの音楽・ゆきのちゃんと全さんの役者二人の声、と、4つの要素がそれぞれ主張していたように感じた。それは言葉の持つ力であり、音楽との調和が利かせる音の力であり、役者二人の個性があり、それを一気に感じたからだ、と思う。
 対して、千秋楽では、4つの要素が、ひとつの音と視覚・ひとり芝居のような一体感があった。
 それは客席が最前列で、苦悩する全さんと求めるゆきのちゃんの表情をたっぷりと見ることが出来たせいがあると思う。表情と感情の組合せと、言葉の意味と音・音楽の音・役者二人の声という音の要素がすべて合致していた。

 リーディングなので「音」に付いてばかり書いてきたけれど、ゆきのちゃんと全さんの演技は、作家と少女のやりとりを、時に熱を帯び、時に憐憫を持たせて、二人芝居でありひとり芝居だった。

 初日、ポエトリーが終了した後の二人の後説が早く入ったように感じた。作品世界から現実へ戻るのが早かった印象だった。
 千秋楽では、後説のタイミング自体に変更はなかったのだけれど、作品世界が残ったまま終わったように感じた。
 役者の呼吸ひとつの差なのだろうけれど、回を重ねるというブラッシュアップは自然に身体に入っていくのだな、と思った。

 20分ほどの作品だったけれど、充分心に入ったものがあった。

インターミッション

 ここで10分間の休憩が入る。
 前半5分後にアナウンスが入り、エムオカさんによる次の作品『トパアズ』のイメージ曲(06)が4分流れ、後半へと入っていく。

 ネット上に今回使われた楽曲がアップされており、ダウンロードして楽しむことが出来る。
 太っ腹。
 太っ腹と言えば、次の演目の「トパアズ」は作者の西瓜すいかさんの御好意で脚本が無料配布された。次の文章の引用はここから出している。

『トパアズ』

 ここで再び、あらすじを。

☆★☆★☆

『トパアズ』

夫婦が居る

創作に励む夫コウ
支える妻チイ
美しい暮らし

父の死
実家の困窮
チイはしばらく絵を描けていない

次第に言葉を失い
本棚の本を開いては読み
読んではセリフを繰り返す

智恵子抄を下敷きにした、高村光太郎・智恵子の〈魂の交歓〉の物語。

「空には意志がありまして?」

☆★☆★☆

 あらすじにある通り、高村光太郎の『智恵子抄』から題材を取っている。台詞のそこかしこに「智恵子抄」が混じっている。
 それでいて「光太郎」「智恵子」ではなく「コウ」と「チイ」の物語となっているのが大事なように思えた。

 「うつくしいもの」を作るコウと、支えるチイ。
 二人のうつくしい生活は、冒頭の描写、大きなおいもをもらってきてふかして食べようとするやりとりや布団を丁寧に乾かしている様で活写されていく。
 同時に、チイの心に確実におちて溜まっていく現実という名前の暗闇。
 コウはそのことが「気の所為」ではないことと感ずるようになっていく。
 チイは読書が好きで、壁一面の本棚の内容がすべて頭に入っているようだ。
 (実際、会場のどうひんは壁一面が本棚である)
 チイはやがて、身体を病み、休暇にと実家に帰っては、かえって変調を見せるようになる。
 戯れのように口にしていた小説・文学の言葉や台詞を「壊れたレコオド」のように繰り返すようになっていく。
 まるで数年前にコウが数年前に渡した小説のように。

「口がきけなくなるというのは、どんなもんなんでしょうね」
(略)
「それが恋なら、恋は終わるのだろうな」
「では愛なら?」
「愛なら愛し続けるだろう。愛とはそういうものだ。しかし言葉を失うといっても、高次の言葉をうしなうだけで案外話は通じるようだよ」
(脚本から P2)

 チイは言葉を失わず、むしろ言葉に埋もれていく。
 それがチイにとっての「蜘蛛の糸」だった。
 現実という亡者に、チイのすがる蜘蛛の糸が切れそうになっていく。
 そこにコウと過ごしていた時の瞳は、チイにはない。
 だが「愛」は終わっていなかった。
 時折、コウに対しての瞳が変わる、「うつくしいもの」を持っていたころのように。

 話を少し脱線させる。
 今、俺自身が書く台本のために資料あさりをしていて、野田秀樹の『売り言葉』を読んだ。
 『智恵子抄』を、と言うか智恵子本人を描き、智恵子の狂気に焦点が当てられたひとり芝居だ。
 作中、「智恵子→ちえこ→ちぇえこ→強え子」と言葉遊びがなされるように、野田秀樹の描いた智恵子像は「強え子」だった。光太郎は、智恵子に優しく手を差し伸べると言うより、智恵子を愛するあまりに手あまりになってしまった……そんなような描かれ方をしているように取れた。

 話を『売り言葉』から『トパアズ』へと戻す。
 『トパアズ』において、「光太郎と智恵子」ではなく「コウとチイ」なのは、いったん現実から切り離してあげる、作者のすいかさんの優しさと眼差しだと思う。
 「チイ」は強い「新しい女」の側面より、すべてを良人に捧げ、しかし過去の自分と実家の破綻の現実とに勝てなかった、「うつくしい人」として描かれていた。
 「コウ」も、チイを愛し、愛するが故に彼岸へ行ってしまうチイに苦悩する。

 「百年、待っていてください!」と、言葉を無くす前のチイは叫ぶ。
 それを聞いて、コウは言う。
 「ひときわ高い声で智恵子が叫ぶ。あぁそれはお前が好きな小説の台詞だ。死に際に魂を残す女の祈りだ。俺の頭の中に白百合が咲く」
 「いいだろう、おれは描いて見せる。そうしてお前を待とう。お前は必ず逢いに来る。そうだろう智恵子!」

 『トパアズ』終盤。物語は九十九里浜の描写にはいる。
 『智恵子抄』の中の『千鳥と遊ぶ智恵子』で、智恵子は「ちい、ちい」と鳴く小鳥と遊んでいる。
 チイもまた、「ざあ、ざざあ、こう、ここう」と音が鳴る九十九里で「チイ、チイ」と戯れている。

 ここで終われば哀しいままになるのだが、もう少し続きがある。

 台本のト書きに寄れば「二千年代の初め」
 (どうやら)十和田湖の湖畔にチイの銅像が、優しく自分への「愛」を貫いたコウの言葉がおかれたそばに立っている。
 「きたならしさはここにはない」

 そして
 「おかえりなさいませ」
 「ただいま、ちいちゃん」
 「おかえりなさい、コウさん」

 『智恵子抄』はもとより、シェイクスピアその他多くの著作の引用を効果的に使って書かれた脚本を、役者の二人は丁寧にすいかさんの意図、及び「コウとチイ」についてすくい上げ、練り上げた。
 間に演出家がいないのが、この公演の肝であり、成功だと思う。
 「コウとチイの有余年の人生」を「ゆきのちゃんと全さんの二人が演じる50分」として提示された。
 そこには感情の揺さぶられるばかりだった事を正直に告白しておく。

 ゆきのちゃんは、チイを「うつくしいものを追う」人として演じていたように感じた。それはゆきのちゃん本人にも通じるところだと思う。『カラノアトリエ』での音はめのこだわり方を取ってもそれはわかる。
 全さんは、チイにうつくしいものを作る「善き良人」であろうとする様を、胸が詰まるほどに演じていた。
 二人とも、演技を通り越していて、「コウとチイ」が舞台にいて、幸せと不幸せを、静謐と地獄を、清濁併せて観客に向けてきていた。そしてそれが最後の二人の会話へ行き着く時、「コウとチイ」が幸せに過ごすように演じた、二人の葛藤の結末なのだと思う

幕がはねて

 初日は、ふたつの演目の作者、ぴこちゃんとすいかさんがいらして(ぴこちゃんは前述の通り当日制作)、俺自身なにを言ったのか覚えていない。
 作者のすいかさんが恐縮しながら「すごい!」と言っていた。
 俺は動けずにいた。
 「あー、芝居やりたい!」と思いながら。

 俺は差し入れに「梅酒」を持って行った。
 思いがけず……な部分と意図した分と半々。
 まさか「鉱石に詳しい北のほうの作家さん」が出てくるとは思っていなかったが。

 千秋楽。
 かぶりつきの最前列で、目に、耳に、焼き付けるように集中していた80分。
 『カラノアトリエ』の、全さんに肩入れしつつ、ゆきのちゃんのメフィスト的な登場していない登場人物に揺さぶられ、音楽とともに渾然と見えてくる世界が、真っ白で、とてもカラフルに感じた。
 書けない時は書けないよねぇ……なんて。
 『トパアズ』は二度目だったのと、前日にすいかさんの脚本を読み込んでおいたのとで、しっかと二人の演技に見入っていた。いや、演技じゃないね、あそこまで練られたら。
 終演後、何か言おうと思ったけど、言葉が出てこなかったので、一礼して退出。

 演じ手が二人で練り上げる芝居。
 思えば、演出家不在の二人芝居、は初めてだ。
 演じ手が、演じたいものを、演じたい場所で、演じたいように、演じる。
 演じる苦しみと喜びが多分にあったのだろうな。

 ゆきのちゃんと全さんお二人と、脚本のぴこちゃんとすいかさん、音楽のエムオカさん、ほか関係者の皆様。
 本当にお疲れ様でした。

 長いこの感想文を読んでくださった貴方にも謝辞を述べて、筆を置きます。
 では。

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