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プールととび箱のこと

 運動が苦手だ。壊滅的、というほどでもないけれど、どう考えても不得手。なかでもプールととび箱は散々だった。クラスにひとりかふたりいる、泳げない子、とべない子。それが私だった。
 ことに小学生のころ、プール開きはすなわち、地獄のはじまりだった。
 そもそもあの、陰気な更衣室がいけない。みるからに埃っぽく、夏場しかひとが立ち入らないせいでうらびれており、おまけにコウモリのフンがそこここに落っこちている。プールに入るのは当然日中なので、だから更衣室のなかは、灯りをつけていなくてもある程度明るい。この「ある程度」というのが曲者で、つまりいいかえれば、不自由のない程度には暗い、ということ。ああ、不気味。つくりつけの白いロッカーはうすく黄ばんでいるし、足の裏は無限にぺたぺたするし、思いだしただけで気が滅入る。
 もちろん更衣室をでたあとも最悪。だっていよいよプールが、水をなみなみとたたえて私を待ちかまえている。入る前からつめたい気持ちになる。絶望。こんなにも全身でプールを拒絶しているのに、逃げださず、放りださず、きちんと水着に着替えている真面目な自分を、心の底から恨めしく思う。
 ところで、縦に二十五メートルあるプールの、横幅っていったい何メートルあったんだろう。もちろん学校によって違うのだろうけれど、私はながいあいだ、その横幅ぶん(十メートルくらい? わからない)も泳げなかった。泳げない子はクラスに数人いて、私たちだけ別メニューで特訓させられていた。ちなみにいちばんひどかったのは隣のクラスのK君で、彼はバケツの水に顔をつけることすらできなかった。私はそこまでひどくはなかった。でも、まあくくりとしては、たぶんK君と同じだった。ほかのクラスメイトからしてみれば、私だってK君だって、泳げない子にかわりはないのだ。
 プール(水泳)において、なによりも信じられないのは、水のなかで——というと語弊があるけれど——息を継がなければいけないところ。息を吐く時間はいくらでもあるのに、吸いこむ機会は一瞬しかないなんて、ちょっとどうかしていると思う。私はその一瞬に、文字どおり命をかけるわけだけれど、元来からだを動かすセンスがないので、どうしたってうまくいかない。結果、私は息継ぎをするたびに溺れ、すこしずつ死んでいく。二時間も授業を受けたら、だから命がいくつあっても足りないことになる。
 小学校の一年生から六年生まで、プールの授業が好きだったことなんて一度もない。それでも、プールカード——青色の厚紙でできた、地獄への通行手形——に“健康状態に問題なし”の判子を押されてしまえば、泣いても喚いても、もう後戻りはできない。私はプールバッグを手に提げ、悲壮な気持ちで登校した。夏休みだってもちろん補習に行った。そうすることしかできなかった。
 とび箱も、とべた試しがなかった。たしか五年生か六年生のころ、ちっともとべないのは、クラスで私とM君だけだった。私たちはふたりだけ、体育館の端のほうで、パステルカラーに塗られた四段のとび箱で練習させられていた。
 とび箱の恐ろしいところは、下手にぶつかるとばらばらに崩れてしまう——と、容易に想像できてしまう——ところと、あのてっぺんのマット部分の、不気味な奥行き。両足で踏みきった地点から手をつくべき場所が、あんなにも離れているのはきっとなにかの間違いだろう。さらにそのあと、二本の腕をたくましく使って前にとびだせというのだから、無茶をいうのも大概にしてほしい。そもそもこちらは、ロイター板を力いっぱい踏みきるだけでも一大事なのだ。とび箱というのは、要求する勇気の数があまりにも多すぎると思う。
 それに、プールと違ってとび箱は、とべたかとべなかったか、結果が明白なぶんだけ残酷でもある。試技が一瞬で終わってしまうのも非情だ。私が一度とんだら(おしりをとび箱にくっつけたら)、スタート地点に戻っているあいだにM君がとんで(おしりをとび箱にくっつけて)、そしてまたすぐに私のばん。ふたりで一台のとび箱を使用していると、必然的にそういうことになる。まさに失敗の大売り出し。クラスメイトからの好奇の視線も感じないわけではない。それでも何度でも挑戦した。そうすること以外に選択肢がなかった。
 小学生のころの私は、それはもう、危ういほどに真面目な性分だった。努力することは美徳だと信じきっていたし、なにかに挑みつづけることこそ正義で、もし諦めたり逃げだしたりしたら、それこそなにかとりかえしのつかないこと——世界じゅうのひとからうしろ指をさされるとか、神様に見捨てられるとか、たとえばそういうこと——になると思っていた。それは戦ったうえで敗北してしまうよりも、よほどおそろしい想像だった。
 だから私は戦った。そのつど誠実に、いまから思えば、痛々しいほどの勇ましさでもって。プールやとび箱はもちろん、鬼ごっこ、百ます計算、マラソン大会、冬の渡り廊下のぞうきんがけ、トイレの花子さん、意地悪な女の子、厳しい書写の先生、それから給食の、おそろしく苦いミネストローネスープなんかとも戦った。戦績はよくもなく、悪くもなかった。ともかく敵前逃亡をしないことが重要なのであって、勝敗はまあ、二のつぎなのだった。
 好きな作家が、子どもはみんな孤独である、みたいなことを言っていて、私はずっと共感できずにいたのだけれど、たしかに私もある意味では、孤独だったのかもしれない。すくなくとも、孤立無援であったことはたしか。父も母も弟も、教師も友人もいたにはいたが、たとえば母が私にかわってプールの授業にでてくれるわけもなく、彼らが私のかわりに戦ってくれることなど、けっしてなかったから。
 結論からいえば、私は二十五メートルプールを果敢に泳ぎきった。とび箱も五段までとんだ。努力は報われ、私は戦いに勝ったのだ。その瞬間は嬉しかったはずだし、たくさん褒められもしたのだろうけれど、いま思いだすのはつらかった記憶ばかりで、間違ってもあのころに戻りたいとは思わない。
 私は臆病な大人になった。戦士はもう、死んでしまった。


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