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流行り廃りに踊る事無く学ぶ事の大切さ

※12/15付け 誤字脱字修正加筆版
"美" や "創造" には、時代を跨ぎ普遍的な輝きを放つ物もあれば、一時代の流れの中で星の瞬きの如く一瞬の輝きを放つ物もある。

また、それらとは状況が異なる "伝統" やら "慣習" と言うものに縛られた物もある。

伝統や慣習と言うものは、人の都合とするところで作られる事がほとんどだが、創造とは、時代とは、誰が誰の何の為に作るのか!?

さて、前置きはこのぐらいにしておくとして、、、

年の瀬も押し迫る中、年末進行のデスマーチもストレスMAXの崩壊第一波を迎えた様で、普段ならやらかさないチョンボをやらかしてしまった。

仕事とプライベートでは随分人となりが違うとも言われるが、仕事では見せない筈の姿(ストレス解放のふざけた素顔な文章というか文体)、見せてはならない筈の形で仕事の校了データを送ってしまったからだ!

しかも、仕事先相手には絶対使わないふざけた文体の上にふざけた顔文字まで入れてw
笑ってる場合じゃ無えよ、、、マジで!

ま、明日、担当さんからなんらかのリアクションはあるだろうが、もう腹を括るしか無い訳で、、、

ここは一つ、そんな哀しい出来事を束の間忘れる為にも、頭の中に溜まってる言の葉を吐き出そう

という事で、、、
前置きで触れていた事の続き、頭の中で日々渦巻いていた言の葉を、まとまりも無く支離滅裂になるかも知れないが、取り敢えず吐き出す事にする。

今の時代、世の中には審査員・評論家・コメンテーターなどと言う生業が社会的地位を得て居たりするが、、、

あくまでも私見・偏見で語らせて貰うなら、もうその道で高みを目指す事や進化・向上に努力を割く事自体を諦めたか、全てが全てでは無いにしても、己の限界を悟った者が生業としている様に思う。

故にと言うか、その癖にと言うか、審査や評論の元や基準になるは、既に進化・向上が止まってしまっている己が基準な訳で、新たな価値観を生み出す創造という行為とは真逆に位置するものだったりして、丸っ切り矛盾している気がする。

とは言え、先にも書いた様にそれらを "生業" として成り立たせている以上、その "生業たる利益供与の代償" は、 "生業" として職に就く為の必須条件なのでは?とさえ疑わしくもなる。

それにも増して面白おかしいのは、審査や評論やコメントの基準となるものが、世の視聴者の多くを占めるであろう市井の人々が感じる事よりも、玄人好みと言うかあくまでも己らの仲間内がヨシとする基準に照らし合わせたものや、その道で名を馳せた者達 "だけ" が納得する様なものだったりと、結局肝心なのは利益供与の要であるスポンサーの意向だったり、、、

無理やり "流行り" や "時代" が創り出されている様にしか見えない。

とは言え、毎日メディアに拠って垂れ流される洗脳効果抜群の刷り込みと、地位や名誉や肩書きに弱く、そんなものに否が応でも踊らされてしまう者達が居るからこそ、未だにこうして成り立っている訳なのだろう。

それでも、真贋ほ本質というか中身が伴う事の無い無理に作られたものなどはどうしても短命なものとなり、その末路たるや悲惨この上無い事になるのも史実が語っている。

中には、余計な後押しのメッキなどかけず、キチンと時間を掛け錬成すれば、ひときわ光を放つ宝石となる可能性があるにも関わらず、その余計な手立て(思惑)に踊らされ潰れてしまった者も少なくはないだろう。

俗に世に言うメディアの御輿ってヤツで、いつ落ちるか分からない所謂偽りの玉座みたいなものだ。

人の目を惹くキッカケさえあれば、流行という名の梯子(ハシゴ)で流行という名の御輿に乗せ、その真価・実力が伴う伴わないに関係無く担ぎ上げるだけ。

で、旬が短ければ梯子を外され一発屋で終わる事にものるし、稀に続いたとしても本人の実力を含めた中身や人となりが伴わなければ、後は炎上込みのマッチポンプで骨の髄までしゃぶられ路傍の骸となるかの違いだけ、、、

つい先頃の事で見本を示すなら、あのネット芸人出?のグーグルピクセルの子などがその分かり易い例みたいなものかも知れないが、、、

彼女の場合に関しては、どうも本人の自業自得かつ因果応報が占める割合も大きいのではないかと思う。

ま、これこそが"盛者必衰は世の理"の教本とでも言うべき "平家物語" にもある 、 ”驕る者久しからずや” の結末なのではなきかと思う。

それにも増して、人の心というものは虚空同様移ろい易く飽き易い訳で、世は変われど如何なる時代でもまた同じと。

どんなものでその根となるものが無ければ、いとも簡単に流されてしまうのは世の道理。

・この作品(創造物)の何が素晴らしいのだろうか?

・この作品(創造物)の何処が面白いのかが分からない?

それなのにも関わらず、何故か世に蔓延する(させられる)ものは多い。

そう考えると、世の人が直感的に心の底から感じる、感じてしまう純粋な"感動" や "驚き" や "思わず溢れ出てしまう笑顔" とは対極の位置にあるのが、所謂 "審査" や "評論" なのではないだろうかと、そう思わざる得ない。

具にも付かない慣習や忖度、それに利権や既得権に縛られるものは、なにも芸能や創造の世界に関する者だけでは無い。

それは、三権と呼ばれる "司法" "立法" "行政" に携わる者もまた然り、、、

悪を捉え捌く事が聖職たる司法にしても、階層社会の権力・権益に縛られ手先となる検察に警察、また天秤をモチーフとした平等の下に裁きをする筈の裁判官達ですら、階層社会と過去の判例に縛られ理不尽を具現化するだけしか脳の無い司法判官であり、国を、社会を、国民を護り祭り事(政治)を行なう為の立法・行政に携わる政治家や官僚達など、やはりこれも階層社会と権力・権益・既得権に縛られる魑魅魍魎が跋扈する世界と化している。

人は、人間は、学び考える事が出来る生き物であり、故に省みて正す事も出来る筈で、、、

学ぶ事、考える事、省みる事、正す事を辞めた時、人は人では無くなり鬼畜へと堕ちるのキッカケとなるのではないだろうか?

などと、なんだかあっち飛びこっち飛びしてまとまりが無いこと書いちゃったけど、、、

"人の生涯は全て学び舎也"

、、、これに尽きると思う。

はぁ、ちょっとだけスッキリしたw

後は、明日の朝の担当からの電話が鳴るまでは、少し身体を伸ばせそうだw

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