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空から見たベリーズは、苦しいけど美しかった。

ひょんなことから「旅」の話になったとき。たとえば、顔見知り程度の人を交えた呑みの席で。あるいは、会社の同僚と、取引先のお客さんと、打ち合わせ後に世間話をしている延長で。まずもって自分から積極的に旅の話をすることはないのだけど、会話の流れ的に避けて通れなくなった場合。「日本の全都道府県を自力でまわったり、中米や南米、アジアやアフリカなど、これまで45カ国に行ったことがあるんですよ」と言うと、大抵「すごい!」となって、その次に「怖い目に遭ったコトとかないんですか?」と言われる。すごいかどうかは、その話を聞いた人しだいなのですが。「怖い」で言うと、たしかに、何度かある。

「もうダメだ」と死を悟った出来事が、アメリカとブラジルで、それぞれ遭った。アメリカでは巨体の黒人に囲まれ胸ぐらをつかまれて「金を出せ」と恐喝された。ブラジルでは銃を突きつけられ、まさにホールドアップという映画さながらの経験をした。いずれも間違いなく恐怖だった。

だけれど、それ以上に「思い出に残る恐怖体験」は、中米・ベリーズのカリブ海沖にある、キーカーカーという島で起こった。南北に延びる、歩いて1時間もあれば島の端から端まで行ける、小さな細長い島。25年以上前のコトだけれど、いまでも一部始終をハッキリと覚えている。

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ベリーズシティからカリブ海をボートで走ること1時間。「カリブ海の島でボーッと1週間くらい過ごすか」なんて意気揚々とキーカーカーに渡ったものの、見るモノ/するコトが何もない島だったので、その翌日にはあまりにも暇でどう過ごしたら良いかわからなくなり、だからといって戻るのもなんとなくイヤだったので、ぼくはダイビングのライセンスを取ることにした。PADIのオープン・ウォーターを取得する4日間のコースでUS200ドル。日本と比較するとはるかに安いし、なんといっても初日からカリブ海に潜れるのである。「貴重な体験にもなるしな」と思いスクールに通い始めた。

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きっと世界でも有数の透明度を誇るからだろう、カリブの海中は信じられないくらい広々としていて、大小色とりどりの魚たちが、どこまでも深いブルーの中を悠々と泳いでいた。それは、これまで見たことのない、感動的な光景だった。初日にしてカリブ海とダイビングの素晴らしさを体験してしまったぼくの期待は否が応でも膨らんでいった。そしてその期待は裏切られることなく3日間が過ぎていった。だが、最終日ーー

朝起きると、なんだかカラダの調子が悪かった。けれど今日が最終日。多少無理してでも行ってしまおうと思い、宿を出た。

いつものようにインストラクターとぼく、それからもうひとりの受講生であるオランダ人バックパッカーの計3人でボートに乗り、沖へ出た。ポイントまで約30分。その途中、体調はさらに悪くなり、ポイントに着く頃にはひどく怠い気分に襲われた。ぼくはやむなくインストラクターに「ボートで休んでます」と伝え、了解してくれたインストラクターともうひとりの受講生はカリブの海の中へと消えていった。

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誰もいないカリブ海。小さなボートの船上に、ぼくはたったひとり残されることになった。

波の音しか聞こえない。午前11時くらいだった。当たり前のように太陽はぼくを容赦なく照りつけた。直射日光と海からの照り返しを受け、猛烈な暑さであることに今さらながら気づいた。にもかかわらず、飲み物を何も持っていないことに愕然とした。すると昨日まで優しかったカリブ海が恐ろしく見えてきた。ぼくは慌てた。呼吸が荒くなってきた。と同時に、指の先から、足の爪先から、痺れを感じ始めてきた。自分の身体が異変を起こしているのに、どうすることもできなかった。呼吸はさらに荒く、激しくなった。そしてあっという間に痺れは全身に広がり、ありとあらゆる筋肉が硬直した。手首を折るように両手だけは曲がり、身体は真っ直ぐに硬直した。自分の意思で、身体を動かすことができなくなった。

それは、これまで体験したことのない、いや、これからも体験することはないと思うほどの、猛烈な苦しさだった。あまりの苦しさに、ぼくは「ギャー」と叫び続けた。というか、叫ばずにはいられなかった。しかし、まわりには誰もいない。波の音だけが聞こえる、穏やかなカリブ海上で。ぼくは、ただただ苦しさに耐えながら、大声で叫び続けた。

異常なくらいの汗をかいていることに気づいたのは、それから10分ほどしてからだろうか。苦しさはいっこうに薄れはしなかったが、意識は徐々にはっきりとしてきた。そうなると、今度は自分が置かれている状況があまりに危険であることを察知し、恐怖心に襲われた。このまま苦しみ、大量の汗をかき続けたら、脱水症状で死ぬのではないか。一度潜ったら40分は上がってこない。つまりインストラクターがぼくを発見するまで、少なくともあと30分はあるのだ。それまでこの苦しみと硬直状態で待ち続けなくてはならない。まさに、拷問だった。

苦しみ続けたその30分は、予想していたとおり、何十時間にも感じられた。極度の疲労も重なり、すでに叫ぶことすらできなくなっていた。そんな矢先、ふたりは海中から上がってきた。

もはや話すこともできない状態だった。口の筋肉までも硬直していたのだ。意味不明の言葉を発しながら、それでもインストラクターはぼくに起きている症状が何であるか理解したようで、すぐに島に戻り始め、同時にスクールに無線連絡を入れた。そのやり取りを聞いていると、キーカーカーは病院どころか医者すら不在の島であることがわかった。そしてインストラクターは「小型飛行機をチャーターするように」と、無線の相手に伝えた。

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船着き場には、島の唯一の移動手段であるゴルフカートとオトコがひとり待機していた。ぼくはそのオトコとインストラクターに抱えられてゴルフカートの後部座席に乗せられた。船着き場は島の北端に位置していたのだが、どうやら飛行場らしき場所は島の南端にあるようだった。島をゴルフカートで縦断しながら進む。当然のように何人もの欧米人バックパッカーとすれ違う。彼らはまじまじとぼくの姿を見ながら、一様に哀れむ表情を浮かべた。

飛行場とはとても思えない、ただの空き地のような場所に着くと、ボロボロの小型プロペラ機が止まっていた。機内は操縦席と副操縦席のみ。あとは空きスペース。ぼくはその中に運ばれた。ゴルフカートで連れてきてくれたオトコは「着いたら救急車が待っているから」と一言残し、すぐに去って行った。操縦士とぼくのふたりを乗せた小型飛行機は、ほどなくして離陸。どこに向かっているのかわからないまま、機上の人となった。

相変わらず身体はピクリとも動かない。動かせない。全身の筋肉が張りつめた硬直状態がずっと続いていた。ただ、すでに意識はハッキリとしていて、苦しさもだいぶ和らぎ、言葉も喋れるようになっていた。「動けない」ということ以外は、昨日までの自分に戻りつつあった。

ふと、窓の外を見た。すると、どうだ。見たこともない、あまりにも美しい景色が、どこまでも広がっているではないか。海はコバルトブルーに輝き、海底が見えてしまうくらい透き通っている。数え切れないほどのサンゴ礁の島々。ついさっきまで恨めしく思えたこの国は、やはりカリブの楽園なのだーー圧倒的な美しさを眼下に、複雑な気持ちではあったけれど、そう思わずにはいられなかった。

飛行時間は20分ほどだった。キーカーカーの北に位置する、サンペドロという町に着いた。ぼくは待っていた救急車に移され、病院へと運ばれた。

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不規則に呼吸し、酸素を多く摂り過ぎることから起こる過呼吸の症状だった。加えて、日頃から水分の補給が不足していたことによる、脱水症状を引き起こしていた。自分の意思で身体を動かすことができるようになったのは、その日の24時を過ぎた頃だった。つまり12時間以上もの間、ぼくの身体は硬直していたことになる。さすがに全身は極度の筋肉痛で、歩くことすらままならなかった。担当してくれた医者から「中米では、もう飲めないってくらい、いつも水を十二分に摂れ」と言われた。「ベリーズの太陽を甘く見るな」と口酸っぱく諭された。

翌日。再び飛行機をチャーターし、キーカーカーへと戻る手配を整えた。

機内からーー元気を取り戻したぼくは、昨日見たあの景色を、もう一度、食い入るように独り占めした。カリブを眼下に、たったひとり、雄大な空から。もう苦しくはなかった。ただただ、美しかった。

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キーカーカーに戻った翌日。最終の講習を終えて、無事ダイビングのライセンスを取得することができたのだった。


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