はなむけの作法。
この春、ある仕事仲間とお別れをした。
新しい地へ旅立つという。
もらった手紙は、熱すぎてヤケドしそうなラブレターだった。
普段クールな彼女とギャップがあった。
こんなことを、思っていたの。
手紙とは、どうしてこんなにも心を揺さぶってくるのか。
思うに、タイムラグのせいだ。
伝えたいことが時間差でやってきて、その時間差分の何かが上乗せされているに違いない。
会話のようなラリーを前提としていない言葉には、普段は隠した素直さと、過ごした重みと、物語が感じられる。
こちらが入り込む隙間は無く
ひとりで出会いを語って、
思い出を語って、決意を語って、
ありがとうと、さよならと、元気でね
を一気に伝えてきて
今までやってきたキャッチボールが、突然相手のターンで終わってしまった感じ。
投げ返すところがなくて、困るなぁ。
✳︎
お礼の品を手渡されるとき、彼女が
「あ、泣きそう」
と呟いて、くるっと背を向けた。
一瞬で感情が溢れ出す人を、久しぶりに見た。
やめてよ、さっきまで飄々としてたのに。
紙袋を受け取った姿勢のまま
私も咄嗟に斜め後方を向いてしまう。
同じ気持ちだった。
よく分からない光景だ。
いま、一番お互いのことを思っているのに。
一番顔を見て話さなきゃいけない相手なのに。
2人揃って顔を見れない。
見せられない。
見せてもいいじゃん別に、とも思うけど
そんな私たちも「らしい」なと思った。
泣いて抱き合う感じじゃないよね、たぶん。
ずっと笑ってきたから。
壁を見つめながら、彼女の泣き顔を想像すると
背中を見るのも無理だと思った。
ああ、振り返れない。
長い間、お互いがよく分からない方向を向いたままで、かなり不思議な光景だったと思う。
しばらくして落ち着いたら、いつも通り話ができた。
昨日や一昨日話したような普通のことを話した。
最後だからっていう特別感をお互いが出さないようにしている気がした。
普通を努めた。
お別れが苦手だから、ここが最後っていうボーダーラインを作らないで欲しい。
節目とか、曖昧でいいから。
いつも通り、そしてふわっといつの間にか居なくなって欲しい。
そんな別れ方があればいいのに。
✳︎
でも境目がなかったら、この手紙ももらえなかったのか。
私も最後に伝えるべきことを、手紙に託すこともなかったのか。
じゃあやっぱり『さよなら』は必要だね。
餞(はなむけ)とは、
見送る人が、旅人の乗る馬の鼻先を
次の目的地へと向けてやったことが由来だという。
今なら、その人の気持ちが分かる。
はじめて今日、餞がちゃんと分かった。
無事を祈って。
希望を持って、あなたの望む場所へいけますように。
不安は少しだけ引き取って
足取り軽く進めますように。
私の悲しみが、伝わりませんように。
心のうちでそんなことを唱えると
私の涙の方が先に引いた。
引っ込めた。
役目や責任という名のプレッシャーを、都合よく自分に負わせるスタンス。
それを頼りに少し踏ん張れる。
誰かの背中を押せるくらいには。
多少の笑顔を作れるくらいには。
餞として表明される言葉と
表明されない本音にギャップがあるほど、
印象的な別れになる。
はるか遠い昔から、こんな気持ちで
誰かが誰かを送り出した。
私だけの体験のようでいて、でもなぜだか
あらゆる人々の後ろ姿が浮かんでくる。
そこへ注がれる眼差しもセットで。
贈る言葉の裏側に、語ることのできない
心のうちを察するに余りある。
それを意味あるものに変換できたとき
私は、大人になってよかったと思う。
春がいちばん、大人になる季節だ。