ASDチー牛がポリコレ(AA)を叩くのはお門違い
昨今、インターネットで用いられる「ポリコレ」の意味が拡大を続けており、原義から甚だ逸脱している。英米では「DEI」「アファーマティブアクション」などと分けられている単語も日本ではポリコレ一語の集約され、この広い定義の如何を巡って日夜レスバが繰り広げられている。
もちろんアファーマティブアクションは明らかに社会的な劇薬であり、処方にはかなり慎重になるべきだ。また過剰に投与すると社会的害が上回るので、過剰だと感じたらそれを表現するのは合理的なことだ。しかしインターネットでは大きすぎる「ポリコレ」の是非というラディカルな議論に終始しているように見えてならない。
さて、特にインターネットに浸りすぎたチー牛の中から、ASDを持つゆえにチー牛堕ちしてしまい、ポリコレ批判に精を出す人々が観測される。しかしこれはASDにとっては自殺行為だと思しい。今回は、ASDに強い逆風の吹くポリティカリーインコレクトな世界ではなく、ケアの世界に住むべきなのかをご説明したい。
アスペの生存戦略
ASDはもともと感情が読めない関係上、必要以上に人を責めすぎてしまったりと、自他ともに疲弊してしまう環境にある。クラスの主流派から干されてチー牛堕ちしたり、ネットで公正世界仮説を振りかざすモンスターになるリスクを常にはらんでいる点も、この特性からきている。そもそもASDは加害だと自覚していない行動でも周りの人を傷つけてしまうことがある。要は定型発達の人々にとって、ASDと付き合うことは大きな負担なのだ。
ではASDはどういう行動をとるべきかというと、おそらくカミングアウトして納得づくで付き合ってもらうのが一番だろう。例えば、「ごめん、俺なんか友達の感情を読むのが苦手らしくてさ。申し訳ないけど、何か俺の言うことで傷ついたら傷ついたよ、って言ってほしいんだ」と説明するなどの対処が必要になる。
おいおい、そんなこと言ったら干されちゃうよ!と思われたかもしれないが、長く付き合ううちに自然とASD特有のKYさが出てきてゆっくり干されていく可能性も十分ある。確かに偏差値が低めの高校のクラスでは、陽キャに干されるかもしれない。しかし進学校なり大学では理解が十分あり、受け入れてくれるコミュニティも少なくない。であれば、早めにカミングアウトしてしまうほうが適度な配慮を受けられる可能性が高いだろう。
誰がASDを暖かく迎えてくれるか
適度な配慮といった。つまり、君の友人たちは君がASDだと理解したうえで、傷つけないように言葉遣いに気を付けて生活してくれるようになる。
要するにポリコレである。
ASDはポリティカリーコレクトな世界でないと快適に生きられないと思われるし、ポリティカリーコレクトなコミュニティでなければ十分に受け入れてもらえない可能性が高い。
そもそも、話していて楽しい男や陽キャが数多いながら、ASDと仲良くしてくれるという行為自体がポリコレ的なのだ。
先ほども述べたが、インターネットではポリコレの程度ではなく「是非」自体が議論される環境になってしまっている。
ASDチー牛が反ポリコレ派で戦うということは、つまりポリティカリーコレクトなコミュニティを廃止する方向に後押しするということだ。
つまり、チー牛としてポリコレと戦うと、自分の居場所を失ってしまう可能性が高いのだ。
私はポリコレの存在価値自体を拒絶するのは過激すぎると思う。そもそもポリコレがなければ快適な居場所を作れないASDの存在自体が、ポリコレの存在する意義を雄弁に擁護している。