NO,2 始めるとは言ったもののどうやるのか


シンボルタワー的な創造物。

まずは実践あるのみ、研修を積む事にした。
そして、2ヶ月に一度のペースで遊牧舎の秦さんのところへ通い二泊から
長い時で五泊程度の放牧豚研修の日々が2020年のスケジュールに加わった。

放牧豚といか、豚を見たことがなかったのですが最初は豚を飼うことはできるのか?餌の確保はできるのか?土地は?どこで飼う?なんて全てが一つずつ全てが難題ばかりで毎日の餌やりや回収、脱走したらどうしよう?なんて事ばかりを考えていたのは脳裏にしっかりと焼き付いている。笑

まずは、豚と生活しながらどうやって接していきながらできるか出来ないかの前に考えてみることにした。

今同じ状況だったらどう考えるのだろうか?
きっとやっていたと思う。

そして、通っていくうちに色々な体験をしていく。
放牧地から違う放牧地へ豚を移動する。
もちろん、紐を繋いで誘導したり、こっちおいで!なんてのも通用はしない。

人が妨げとなるように先回りして、ゆっくりとしたペースで誘導するしか手はない。

豚を実際に見たことがなかった僕に取っては全てが新鮮で、なんとも斬新な移動方法に驚いた。

祖母が僕が小さい頃に阿寒町という今では釧路市と合併した土地で小さな手作り牧場で
肉牛を育てていた。
馬喰(バクロ)という牛を売り買いしたり、市場に牛を出荷したりそれはそれはパワフルなおばあちゃんだったので今でも鮮明に覚えている。
大阪から来ている商売人にも負けず劣らずの口の悪さが災いして、絵に描くような
人付き合いの良いアル中の祖父に代わって祖母が大活躍しており
91歳で大往生したのですが、先日の葬式も泣けるというよりもなんか感謝の気持ちが強くなった。

そして、その遺伝子は孫世代に受け継がれており。
食肉関係に勤めているのは孫総勢15人中おそらく半分は食肉、酪農にどっぷり浸かっている。僕もそうだ。

祖母の特徴は、牛の見方や、育て方は観察しながらも直感でやっていた気がする。
好きなこと全部やっていた印象。
牛にも話しかけて、ヤギが好きな僕にヤギを飼い、ポニーが欲しいと言ったらポニーが祖母の家にいた。笑
なんでも叶うとこの時思った。

何よりすごかったのが、祖母のつけているスカーフでポニーは首を巻かれると一緒に並走するほどのなんだろ。綱を外した動物みたいな祖母だった。笑

そんな祖母の影響もあってか、そこまで放牧豚に抵抗もなく自然と取り組むことになった。糞尿処理から、移動、餌やりなど1日のルーティーンがなんとなくわかってくるまでに時間はそこまでかからなかった。

それよりも実際に行うことにあたる土地・水・餌・人ということの方がよっぽど気掛かりだった。

少なからず食肉加工業やその他の仕事もあるために一日いっぱいを放牧豚に充てる時間は取れなかった。(今もそうだが)
加工でもホルモンや一定の商品は僕の担当だったので、放牧豚をやって暗くなってから会社に行く。
そんな覚悟もなかなか決断できなかった。

周りの意見をあまり聞く方ではないのですが、やったこともない放牧豚の話に周りはあまり賛成ではない雰囲気だった。笑
その時は少し悲しかったけど、今思うと周りの人たちの驚きようは誰もしていないことへの心配だったと思う。逆にやりきった時にはみんな賞賛してくれた。
それが
何より嬉しかった。
期待の表れで誰もやってないからやろうと思うことが決して間違ってなかったような気がした。


土地を探していたら先輩から隣の土地が空いているよ?
聞いてみたら?の一声で飛びついた。

そこは養蜂場があって、その先を抜けると木炭を作っている製炭所だった。元々の繋がりの中で色々と縁あって繋がっているなーとこの時も実感。

それが”米飯製炭所”の大橋さんだ。

この先に広い大地が広がっていた。
その製炭所の大橋さんと一緒に放牧豚の管理を半年以上、放牧豚の世話をする事になるとはこの時は思っていなかった。笑

まずは、土地を見て。遊牧舎の秦さんに来てもらい一緒に観察。
こんな感じで、こう作って、なんて計算もやったこともないのに話していた。

この土地を改良して放牧地にしたいと相談している風景。


なんとか土地を買えて、早速やろうという時には頭はすでにいっぱいで。
酒場でも会社でも、友達と遊んでもすでに牧場のことで頭はパンパンだった。
必然と偶然なのか全てがつまづきながらも少しずつ進んでいった。

土地は買えたが、豚に必要な餌と水の確保がまだまだ整ってなかった。水に関しては地下水を掘ることや、100m下れば川の水が流れている。
ポンプアップ?え、嘘でしょ。

どうしよう。
そんな時に、溜池がすぐ隣にあって昔には米作にしようと取り組んだ結果だと知った。
この溜池が土地内にあるのは飲み水としては最高じゃないか!とまで思った。

溜池からタンク、タンクからホースで豚のところまで約70mくらいあった。
水道会社で働く先輩の力が絶大で、なんとか給水はどうにかなるようになった。
ポンプで毎日組み上げるのは本当に苦労した。
ガソリンがなかったり、不調だったり、本当に山の中で行うことに一つでもつまずいたら全てがストップしてしまう。
しかもライフラインの水をなくすことは絶対にできないと心に誓った。

毎日、タンクの中の水がが空になっていたらゾッとするような、、、

そんなゾクゾクする日々の始まりでした。


やりたかった、周りの土地の木を伐採して豚舎を作ったり。
ユンボで坂を平行にしたり、手伝ってもらいながらも焼き肉をしたり、本当に充実していた。

4月から1ヶ月半で放牧地に変える作業はなかなかハードで雨との戦いでもあった。道具ひとつ忘れても取りに帰ったら60分くらいは往復がかかる場所だった。

近いと思っていたが、実は結構な距離だったのはテンションの上がったせいで距離感がおかしくなっていた。笑

酒場で一緒になった先輩はカウンターカルチャーだ!と言って、設計から建築まで本当に最初から手伝ってくれた。

建造物。脚立の数も圧巻。


牧場の杭を打つときは多くの仲間が集まって、かけやがひとつしかないのに十人くらい集まったのはみんなで一つの杭を打つのを見守り隊のようになったのは面白かった。

終わらないはずの杭打ち。
大勢の仲間のおかげで
僕は5本くらいしか打ってない。笑

そして、子供たちが杭に木酢液(木炭を作る際に出る蒸気を液体にしたもの)を杭に塗っているのはいまだに思い出すと微笑ましくてほっこりする。
そんな集まる場所ができそうな時は嬉しかった。


小さくても偉大な助っ人。
大人も楽しさ満開。子供パワー恐るべし!

こうやって、少しずつですが貧乏牧場は仕上がりつつありました。
進んでいくたびに予算の浅はかさは到底考える頭もなく、銀行に開拓費用だけでもと相談行ったら農業には融資できないらしく。
二年間の農業実績がなきゃいけないという門前払いでさらに先が暗くなったのは今では試行錯誤できたおかげです。

無計画なほどこれほど楽しいチャレンジはなかった。

何もかも悪いわけじゃなく、進まないとわからなかったことだらけでそんな日々も精一杯楽しんでた。
心のどっかで出来ないことはない。そう強く思えたのはこの時がきっかけだった。


最後は大雨の中の作業。

今見返してもチャレンジングな事に
広告会社、設計士、花屋、製炭所、庭師、鉄工業、居酒屋、薬剤師、家具屋。(そのほかにも結構な人数だった)
が集って何か作り上げるのはこの先もない事だと実感している。
改めて感謝を伝えたいです。

本当にありがとうございました。

NO,3に続く。



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