故、完璧主義の私へ

このnoteを生き辛さに苦しんでいた思春期の私に送る。


皆さんは完璧主義者ですか?私はそうでした。

私の完璧主義は分かりやすく中1の頃から始まり、大学1年の初期まで続いた。

完璧主義というのはとてつもなく厄介で、破滅的な思考である。

毎日とてつもないほどのこなければならないリストやタスクがあり、それをスケジュール通り完璧にこなせなければ意味がないのだ。

例えば朝6時に起きて歯を3分間磨いて朝食はヨーグルトで制服は洗濯してあるのを着てetc..みたいなのがたくさんある。

これが一つでもこなせなかった場合、その1日は意味がなくなってしまう。そして自己嫌悪に陥る。

例えば朝6時に起きる予定が6時1分に起きてしまったとする。本来であればそんなことは大した問題ではない。だが6時に起きたかった完璧主義の私にとって、6時1分に起きてしまったことは完璧な1日のスタートとして正しくないのだ。

そこからより完璧に向かうように改善していければ良いことを、その1日をもう無駄になってしまったものと捉え、二度寝してわざと少し遅く起きてみたりと破綻的な思考に走ってしまう。なぜなら完璧ではないからだ。0か100かでしか物事を考えられないのである。

しかしこうしてしまったことに、1日を現在進行形で無駄にしていること自体には大きな罪悪感を感じる。ここに生き辛さを生み出すのだ。

そうして次の日からはと思いながら寝て、しかしながらその前日は死んだ一日であるから夜更かしなんかを甘んじてしてしまい、次の日は時間通りに起きれない。

これが完璧主義者の負のループである。下手をすると向上心の全然ない子の方が毎日を充実させて生きている。文面に起こすとこんなにも狂っていることなのに、どうしてなかなかこの思考から離れることはできなかった。



…そんな私がなぜ完璧主義者を辞めることができたのか。

それは「正解が一つではない」ということを学んだためである。

私の完璧主義は大学受験を機に加速していた。自分を毎日責め、できもしない目標を掲げ、できない自分に嫌悪するという最悪のループをしていた。自分が変われるきっかけを探し、それに縋り、それでも変われない自分を嫌いになり続けていた。

その時に書いてたノート

そうして入った大学である、完璧主義が続いていても不思議ではない。

実際大学初期の私は理想の大学生像に近づくべく授業にちゃんと出て勉強をしていた。遊んでいる人を卑下している部分すらあったように思う。

しかし大学生活が進むにつれてどうだろう、勉強ができること自体はそんなに評価されず、サークルや友達の多さなどが評価基準の大部分を占めてきていた。

しかもそのことは就職活動などの社会的評価にも大きく関わってくるという。

その状況が、私を完璧主義者から変えたように思う。というより、完璧主義者ではいられなくなったのだ。自分にとっての正解がわからなくなったからである。

授業を飛んで友達と遊びに行った方が正解な気がしてきたり、友達が増えることの方が勉強ができることよりも価値があることのような気がしたのだ。

単純に0か100かではいられなくなった私は、そこで自分の好きなことを優先してみるのって楽しいなって気づけたように思う。

そんなことを優先していたら休学してオーストラリアに行くまでになったのだ。

このことについて良い悪いという話はないが、とても生きやすくなったように思う。あの頃よりも幸せであると感じる。

多分、完璧主義であった私は自己肯定感が低かったのだと思う。世間的に良いとか、これができる自分なら好きになれそうなど、ありのままの自分を認められず、常に焦燥感に駆られていた。

自己肯定感は何かができる自分を肯定することじゃなくて、こんなこともできないけどおれってサイコーだな!って思えることだと思う。

完璧主義者の採点方式は常に減点方式である。100点の生活からできなかった部分を減点していく。完璧主義歴6年とちょっとを経験した私であるが、完璧であった日は2日間となかったように思う。

今現在完璧主義者で苦しんでいる人は、ぜひ日常を加点方式で採点してみることをオススメする。これは9年前の私にも教えてあげたいことだ。

あなたの完璧主義ができるだけ早く終わりを告げますように。

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