教員の多様性を大切にし合いたい
学校には色んな先生がいる。
元気な先生、静かな先生、お母さんみたいに優しい先生、警察官みたいに厳しい先生、体育会系の先生、研究界隈出身の先生 etc….
各々が自分なりの教育方針を持って、子どもたちの面倒を見ている。
今日はそのことについて書きたいと思う。
教育に正解はない
私は、唯一無二の正解を探すのではなく、色々な先生がそれぞれの良さを活かして働けば、それでいいと思っている。
そもそも教育には、時代によって「良さそうな方向性」はあっても、唯一無二の正解はないと思う。
だから、家庭によっても教師によっても教育方針は違って当たり前だ。
生徒にとっても、色んな先生を見て、いろんな家庭の教育方針を知って、多様な視点を得ることは悪い事ではないと思うし、
中高生のうちに色々な人の考え方を知ったうえで、自分なりの決断ができるといいよね、と思っている。
学校で働く自分を肯定するために
この仕事を初めたばかりの頃は、他の先生よりも色んなことが気になったり、弱気になりやすかったり、生徒にガツンと言うのが苦手な自分は、教員として劣っているのかなと悩んでいた。
でも、教育は分業だと思うようにしたら、楽になった。
先生全員が強気で大雑把だったら、学校は静かな子たちにとってとても息苦しい場所になってしまうだろう。
かといって、全員が静かで繊細な先生だったら、それはそれで退屈な場所になってしまう。
実際、私には静かな子が寄ってきがちで、元気で社交的な子たちとは何となく距離感がある。
だんだんと、陰キャと呼ばれる子たちのオアシスのような立ち位置になってきている気がする。
だから、学校での私の役割は「私らしさ」を活かして教育の一端を担うことなんだと今は思っている。
このような理屈で、私は学校にいる私を肯定できるようになった。
先生どうしがお互いの違いを尊重し合えたらいいよね
そして、他の先生の教育方針や、教員としてのパーソナリティもできるだけ尊重したいし、尊敬したいと思っている。
(そして、私のことも尊重してほしいと思っている。)
でも、これが中々難しい。
どうしても、教員って自分と違うタイプの教員を否定的に見る傾向がある気がする。
それぞれが「良い教育とは何か?」という問いに向き合いながら日々頑張っていて、そのプライドがあるからこそなんだと思う。
私だって、他の先生がやっていることを否定的に見てしまうことはある。
だから、こっちがいくら尊重していても、必ずしも同じだけの尊重が返ってくるとは限らなくて、「ああジャッジされてるなー」と思うこともある。
でも、教員だって人間で完璧じゃないし、どんな先生にだって、「その人らしさ」を活かして働く権利があると思う。
だから、「これは良い教育で、これは悪い教育」というように白黒思考で仕分けるのではなく、
「教育に正解はないよね」「でも一緒に良い方向を目指していきたいね」
という前提に立って、お互いがお互いらしく働ける環境、
違いを活かしあいながら、一緒に「良さそうな方向性」を目指していけるようなコミュニティが、理想的だなと思った。