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UNKOの話

入浴のお手伝いに来てくださるヘルパーさんの一人、彼女は地方から出てきた子で、私よりずっと若く、そしてかなり不思議ちゃんだ。年齢的には立派な大人だが、子供のままの純粋さを失っていないとても良い子である。


その彼女が子供の頃の話をしてくれた。


学校から帰るなり、スコップを持って近所に行き、土ごとUNKOを掬って家に戻り、母親に見せたというのだ。
UNKOは長さといい、固さの加減といい、ひび割れもなく、完璧なものだったそうだ。
彼女はそれを犬のUNKOだと信じて疑わないが、私を含め、彼女以外のその場にいた人全員で「近所のおじいちゃんのものかもしれない」とからかって、和やかに時間が過ぎていった。

それにしても、UNKOの話は何故盛り上がるのだろう。
大人になると公共の場でUNKOについて話すのは憚られる。話したとしても医学的にとか生物学的にとか動物行動学とか、そういうきちんとした場で、学術的に語られるものだろう。
あるいは医療にかかっている際に話題になることもあるが、しごく真面目に語られるはずだ。

そうではないリラックスした場面でUNKOの話は盛り上がる。
UNKOを語りだすと、皆もうまるで小学校3年生の男の子のような表情になる。
臭い、汚いと忌避されながらも、UNKO、UNKOと皆はしゃぎだす。
面白半分に検索してみると、やはりUNKOの話は盛り上がるのだそうだ。

こちらの記事によると「UNKO」は言ってはいけない言葉だと教わり、ダメと言われるから余計に言いたくなるのではないかと解説されていた。
確かにそういう面もある。

世の中には言ってはいけない言葉はたくさんあるが、UNKOは下品さ楽しさのギリギリのところで、ちょっとした罪悪感と響きの面白さと共感性のバランスを保っているのではないか。

今読んでいる本の中に、トイレに関する記述がほんの少し掲載されており、それによると育児の中でもトイレの躾はなかなか難しく、時間もかかるとのことであった。
ざっくり説明すると、人間は定住生活よりも移住生活の方が長かったため、その名残だということのようである。
(定住生活への移行については大変興味深い研究があるので、読了後執筆したい)

まとまりがつかないが、無理にまとめてみると、人はUNKOに始まり、UNKOに終わるということだ。
どんなに美しい人も、どんなに尊敬する人も、社会的地位や身分や世の中の何もかもをひっくるめても、人はUNKOをする。
人類は、UNKOの下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、等しくUNKOをする。

今日も、明日も。

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