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「特権」とはなんだろう
SNSのトレンドに上がっていたシス特権に関する記事を読んだ。
「シス」とは生まれ持った体の性と性自認が一致している「シスジェンダー」を略したものだ。
世の中には「男性」「女性」だけではなく、様々な性の在り様・在り方があるということは既に理解している。
しかし「シス特権」という言葉を目にした時、正直なところ不快感を覚えた。
それは同時に、一瞬とは言え、心のうちの差別心を自ら認めたときのような嫌な気持ちだった。
SNSにも批判的なコメントが多かったように思う。
どうして私はシス特権という言葉に不快感を感じてしまったのだろうか。
シスジェンダーの私にとって男性と女性に二分類された世界はなんの不便も感じていない。特権意識もない。
私は目が見え、耳が聞こえる。このことにも特権を感じたことはない。見えることは当たり前、聞こえることは当たり前、そういう世界に住んでいる。
世の中に見えない人や聞こえない人がいることは知っているけれど、そういう人達と接する機会を持っていてもなお、普段の生活で見えることや聞こえることに特権があるようには感じない。
ところが身体障害を持つ車椅子ユーザーの私は、ひとりで行きたいところに行け、したいことができる身体の持ち主は特権だと思っている。
つまり社会システムの中で自らの努力では超えられない壁がある人にとって、その壁がない人は生まれながらに「特権」を持っているように見える。多数派に合わせた社会デザインで何も困らず生活できることこそが特権なのだ。
そして特権を持っている側はその事に気づかない。
立場を変えた時に初めてそれが「特権」であることに気づく。
「あなたのその特性は特権です」と言われた時に、いや別に優位に立ってるわけじゃないし、むしろ女性or男性であることで不利すらあるよと一瞬思わなかっただろうか。
多数派として、少数派に「配慮」を強いられ、「コスト」を割かれ、「考えること」を強制される感覚にならなかっただろうか。
安定した世界を脅かされる不安が押し寄せてこなかっただろうか。
それこそが私が感じたシス「特権」に対する不快感なのではないか。
人は誰でも多数派であり、少数派である。
単純な話、この国で日本語を話す人は多数派だが、世界からみれば少数派なのだ。
異なる属性に思いを寄せること、つまり相手の立場に立って考えることは言うはやさしいが非常に難しい。
何かを意識することなく当たり前の生活が享受できることが「特権」であり、それに気づくことから始めよう。