【ショートショート】準備室の静かな約束
放課後の美術準備室。独特の油絵の具と木くずの混じった匂いが、鼻をくすぐる。僕は一人、来月の文化祭で展示する絵の額縁を組み立てていた。
「田中くん、手伝うよ」
ふいに背後から声をかけられ、僕は肩をびくっとさせた。佐藤美咲。隣のクラスの彼女。水彩画のような透明感のある雰囲気で、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。彼女と一緒になった美術委員の活動は、嫌いじゃなかった。むしろ、彼女と過ごす時間は、密かな楽しみになっていた。
「あ、佐藤さん。もうこんな時間か…」
時計を見ると、もう随分と時間が経っていた。
「集中しすぎると、時間忘れちゃうよね」
彼女はそう言って、僕の隣に座り、額縁のパーツを手に取った。
「ねぇ、田中くん」
作業中の彼女の真剣な表情が、ふと和らいだ。
「今度の日曜日、暇?」
唐突な質問に、僕は少し戸惑った。日曜日?特に予定はなかったはずだ。
「えっと…特に予定はないけど…」
「よかった。実は…」
彼女は少し照れくさそうに、バッグから二枚のチケットを取り出した。
「美術館のチケット、あるんだけど…一緒に行かない?」
美術館。確かに、彼女は絵が好きで、よく美術館の話もしていた。でも、まさか僕を誘ってくれるとは思っていなかった。
「友達と行くはずだったんだけど、急用で行けなくなっちゃって…」
彼女の言葉は少し早口になっていた。…もしかして、本当は最初から僕と行きたかったのだろうか?心臓が、静かに早鐘を打ち始めた。
「…よかったら、田中くんと…」
小さな声。でも、この静かな準備室には十分すぎるほど響いた。絵の具の匂い、木くずの感触、額縁の角。いつもと同じ美術準備室なのに、彼女と一緒だと、何かが違う。特別な空気が漂っているような気がした。
「…うん、ぜひ」
少し緊張しながらも、僕は素直に答えた。
「本当?よかった!じゃあ、今度の日曜日に」
彼女から受け取ったチケットに視線を落とすと、「ルノワール展」の文字が目に飛び込んできた。
「あ、ルノワールの特別展なんだ」
僕の言葉に、彼女の目が輝いた。確か前に美術の時間に、ルノワールの光の表現について熱心に語っていたっけ。
「佐藤さんって、印象派好きだよね」
「覚えててくれたの?」
少し驚いたような、でも嬉しそうな声。
「うん。この前の美術の時間、すごく詳しく説明してくれたから」
「そう…なんだ」
彼女は少し頬を赤らめながら、額縁のパーツを手の中でくるくると回している。
「実は、このルノワール展のこと、すごく楽しみにしてたんだ。特に『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』も今回展示されるんだって。教科書でしか見たことなかったから…」
彼女の声が弾んでいく。普段の穏やかな表情とは違う、少女のような無邪気さに、僕は思わず見とれてしまった。
「あ、ごめん。つい興奮しちゃって」
「ううん、むしろ…」
言葉を探していると、彼女が不思議そうな顔で僕を見つめた。
「むしろ?」
「…佐藤さんがそうやって絵の話するの、好きだな」
言葉が口をついて出た後で、自分の発言の重みに気づいた。準備室の空気が、一瞬止まったように感じる。
「…ありがとう」
彼女は小さく、でもはっきりとした声で言った。額縁のパーツを握る手が、少し強く握りしめられる。
「じゃ、じゃあ日曜日は絵の解説係をさせてもらおうかな」
急に照れくさくなったのか、彼女は慌てて話題を戻した。その仕草に、僕まで照れてしまう。
「よ、よろしくお願いします」
ぎこちない会話。でも、二人とも少しずつ笑顔がこぼれて、それから額縁の組み立て作業に戻った。夕陽に染まった美術準備室で、絵の具の匂いと共に、僕たちの物語は新しいページをめくり始めていた。