未来チャネリング×シンギングボウル 鎌倉1dayリトリート【中編】 〜 Kaloさん&進よしのりさん&風澤直子さん
noteで出会った「鎌倉1dayリトリート」に参加してきたのは、先週の土曜日のこと。
今回は後編→中編。(長くなってしまい、急遽分けることに。)
目的地の海辺に向かって、だらだらと散歩する午後。
星座の話とかをしながら、歩く。
月星座がスラスラ出てくるのにはみんなで笑う。
これだけでもうしあわせだったけれど。
たかちゃんに肩車している長女を見ながら、次女の手を引いて歩く。
たかちゃんも、しんちゃんと同じく愛があふれているのだけれど、愛の質が液体ではなく気体な感じがする。
それと、体の芯のあたりに強いエネルギーが背骨のように貫いていて、表面から気として発散されている。
なぜかイメージすると漢字が思い浮かぶ。
基本静かなひとなのに「動」とか「発」とか、あとは「道」とかが見える。
「義務」として子どもと遊んでいるわけじゃないことが伝わってくる。
彼は子どもと遊んで楽しんでいるのであって、いやいや子どもの面倒を見てくれているわけではないのだった。
子どもたちはもちろんそれがわかっている。
発散される屈託のないエネルギーにわらわらと集まってくる。
こどもたちはずっとたかちゃんを取り合っていた。
親としてうれしいのは、こどもにたくさんのひとが関わってくれることで、そこにさらに愛情が注がれているなんて贅沢だなぁと思う。
ここから後日談にはなるが、この日以来次女はことあるごとに「ここにたかちゃんがいたらなぁ」とか「たかちゃんがお父さんだったらなぁ」という。
マックに行けば、脈絡もなく突然「今ここにたかちゃんが偶然来てくれたら一緒に遊べるのに。」とつぶやく。
大人の男性が苦手な次女にしては本当に珍しいことなのだった。
当日の午後に戻る。
由比ヶ浜に着いて、いよいよ「未来チャネリングワーク」だった。
といっても、何をしたか、と言われると記憶が曖昧なのだ。
なので、わたしに見えたものを書こうと思う。
まだ陽は高かった。
まっさきに海に走っていくこどもたちを見ながら、「着替えを持ってきてない」と不安がよぎったので、もう海の方は見ないことにした。
それにしても、空と海と砂浜のコラボが絶景だった。
Kaloさんがシンギングボウルを鳴らした瞬間、ふわりと体が浮いて、現実が遠ざかったように感じる。
Kaloさんは穏やかで明るくて物腰も柔らかいし人柄も素敵。
けれど、それは本質じゃない。
そう何故か強く感じる。
演奏をはじめたKaloさんは空気に溶けて透明になっていく。
人間としてのKaloさんの気配が消える、感じがする。
遠くとこの空間をつなぐことに徹している、職人?というかアーティスト?巫女?というか、真摯にその瞬間に自分を捧げているというか。
降りてきた音は澄んでいて、体に染み渡っていく。
そして、わたしは遠くの記憶に連れて行かれた、というか飛ばされた。
わたしの場合、記憶というものに占める「声」や「音」の割合は大きい。
高校生の時に好きだった音楽を聴くと、ある日の記憶が鮮明に蘇ってきたりすることがある。高校の教室の湿度や匂い、友だちの話し声や後ろのざわめき、その時の感情、制服の感触、塗っていたリップの味までもリアルに自分の中にかえってくる。
「音」や「声」は記憶についているタグや糸みたいなものだ。
遠くの記憶を鮮明なまま今ここに連れてきてくれる。
Kaloさんの音はすごく遠くの記憶でもしゅーんと連れて行ってくれる。
そして、途轍もない純度の高い記憶にアクセスできる。
たしか夢の話をしていたと思う。
わたしは屋久島で暮らしたいとか、この前のリトリートで神社で声が聞こえたような話をした。
つぎはひで。さんの順番だった。
「(わたしの話を)聞いていて気づいたんですが、神社で声が聞こえたりとかしてみたいかもしれない。」
ひで。さんがそう話し始めた瞬間、わたしの脳内に突然女の子の声が聞こえ始めて、持って行かれた。
ひで。さんの声、現実が遠ざかる。
つかもうとしてもつかめない、声が泡のようになって、聞こうとしても入ってこない。
意味とか内容は入ってくるんだけれど、話に集中できなくて細かいところが全然聞き取れない。
わたしの頭の中はもう、女の子の声一色だった。
ふと涙がこぼれそうになる。
女の子の声は明るいけれど、悲しいのかもしれなかった。
感情がわたしを支配する。
中学生くらいの女の子がひで。さんの周りをくるくる回っている気がする。
その子はずっとひで。さんに話しかけているのに気づいてもらえないらしい。
ひで。さんの未来の話を掘り下げているときだった。
「誰に一番感謝していますか。」というなぁなちゃんの問いに、ひで。さんが「奥さんですかね。」と答えた声が、不意に耳に入ってきて、残った。
あ。奥さんだ、このひと。
なんで今まで気づかなかったんだろう。
奥さんの無意識とかハイヤーセルフとか、そういうひとだ。
そう気づいた瞬間から、脳内はさらにマシンガントークだった。
もう目の前のひで。さんの言葉が全然耳に入ってこない…許して。
聞きたい気持ちでいっぱいなんだけど、この子が。
わたしは今、夫婦の惚気をめちゃくちゃ聞かされています…
とその場では言わなかった笑
「そのひとは奥さんで、ひで。さんのしあわせを願ってるみたいですよ。」と大人のふりをして言った。
間違ってない。意味は合ってる。だいぶ端折ったしニュアンスは違うけど。
この女の子の気持ちはひで。さんにはあまり届いていないらしかったけど、今日初対面の40過ぎの女にこのテンションで言われても困るかもしれないとその場で伝えるというのは気が引けた。
さすがにねぇ…笑
それに、いつか直接お話しできる気がした。
というかそのうちふたりでラブラブ会話してそうな気がする。
次はのりこさんの番だった。
のりこさんの声も耳に入る前に淡雪みたいに溶けていった。
内容を理解しようとは思うけど、脳に入った瞬間から薄まっていく。
つまり、話を聞けない。思考を働かせなくするためなの?
のりこさんのイメージは声じゃなくて、映像できた。
わたしの頭の中では、のりこさんは森に住んでいる。
ヘンゼルとグレーテルとか、赤ずきんちゃんとか、そんな童話の世界だ。
スイスの女の子みたいな服を着ている。
りんごを一口かじってあむあむしたかと思えば、次の瞬間もうりんごのことは忘れてうとうとと眠そうだ。
お花にうっとりしたり、小鳥とお話ししたり、日々がゆったりと過ぎる。
生きる意味とか明日とかではなく、常に今を味わったり愛でたりしている。
今が甘くて、ただただしあわせ、そんな女の子だった。
もう、かわいくて可愛くて、ひたすらカワイイ。
アニメのように流れていく映像は止まらなくて、やっぱりのりこさんの話は入ってこなかった。
目の前ののりこさんすら、もう女の子にしか見えない。
何かする、とか生きる、とかそういうことじゃなくて「在る」という言葉が思い浮かぶ。
この女の子は、どうやらのりこさんの ”本質” らしかった。
Kaloさんの中ののりこさんのイメージとも合っているらしい。
見えたけど意味がわからなかったので、答えあわせできてよかった。
こういうのも初めての経験だった。
このイメージを伝えたとき、のりこさんは本人の話でもこどもっぽかった。
けれど、そのあと少しずつ成長していった。
思春期くらいの女の子になり、友だちと遊ぶ。
夏休みみたいな楽しかった記憶。
そのあとののりこさんの未来の話で、「死後」の世界というのがあった。
ドラえもんで描かれたみたいな未来都市をのりこさんは眺めている。
けれど、死後の世界でそこにいるのはのりこさんの魂だけで、その世界のものに触ったり関与することがない。
少し怖いというか寒い感じのするイメージだったけれど、のりこさん本人はそう感じていないようだった。
でも、そのときにやっぱり「在る」という言葉がもう一度飛び込んできた。
周囲がどうであっても、のりこさんのスタンスはこれだ、となぜか思う。
静、というか止まっている、というか、そこにいる。
目の前に在るものをみる「目」は変わるみたいだ。
こどもだったり、おとなだったり、そのときの体や状況による。だけど、見る姿勢が変わらない。
死後の世界というより、上の方の人が下界に降りてきた感じ。
悲しいとか嬉しいとか内側に感情は浮かぶけれど、それに支配されない。
周囲に影響されず、かつ与えないようにしながら、在り続ける。
記憶とか記録、ログという言葉が思い浮かんで、味わった感情や痛みを箱にしまっている絵が見えた。不思議なイメージ。
書いているわたしには正直理解しきれていない気がするのだけど、合っているのだろうか。
ここまでめちゃくちゃイメージが入ってくると、いつもは額や頭が痛くなったりするのだけれど、場のエネルギーが高かったからなのか、海や木からエネルギーをもらっていたのか、Kaloさんの力なのか、この日はそんな制限がなくて、妄想が暴走した。
振り返ると、真冬の海と戯れるこどもたち。
え、風邪引くんじゃ、と思いかけて見るのをやめることを再度決心した。
けれど、結局全身びしょ濡れになり最後子どもたちの着替えをさせていて、ひで。さんの後半部分ものりこさんの後半部分も聞き逃した。
聞きたかった、そう思いながらも、必要な情報は入ってきているとどこかで確信していた。
▼続きます。