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未来の記憶にアクセスする 鎌倉1dayリトリート【後編】 〜 Kaloさん&進よしのりさん&風澤直子さん

noteで出会った「鎌倉1dayリトリート」に参加してきたのは、先週の土曜日のこと。

今度こそ後編。(愛が溢れて長くなりがち。)

自分のワークで覚えていることをかく。

まず思い出すのは、最初の方、わたしの感じるしあわせのところ。
この時言葉にはならなかったのだけれど、イメージでは雲の上の国にいた。
ひとりでもふもふの雲をおふとんにしてずっと寝ていた。
起きたかと思えば、特に何をすることもなくもふもふの雲の上を転がる。
そこで陽は落ち、夜が更け、朝になり、また日が昇るのを繰り返す。
時折雨が降る。
細かい霧のような雨を、わたしは全身に浴びる。
温かい泥のような眠りに落ちる。
誰もいない、誰もこない、わたしだけの日々。
見ている方のわたしは「ずっと一人でさみしくないのだろうか」とか「飽きないのだろうか」と思うのに、その子はひたすらしあわせそうだった。

わたしの話を聞いたなぁなちゃんが、「感情を味わうときに幸せを感じるんですね」という。
なるほど、そうかもしれなかった。

このとき話したのは、こどもを授かったときのことだった。
産まれた日、とかではない。
長女がお腹にいるとき、なんでもない日のことだ。
ふと上の方から光が降ってくるような気がした。
わたしは、柔らかな草の上に寝ていて、霧のような雨が降っている。
雨は光とともに温かくさんさんと降り注いで、わたしはそれを祝福だ、と感じている。
その空間は永遠で、いつでもそこに還れる、そんな感覚。

雲の国はここからきたイメージだったように思う。
わたしは、雲の国から未来の屋久島の記憶に飛んだ。
Kaloさんの音がガイドをしてくれて、あっという間に着いた。

この最後の未来チャネリングのところで、わたしは唯一自分のことが見えにくくなった。いや、見えているものをかき消したのだ。
抵抗だ、と自分ではわかっていた。
なぁなちゃんにも見えていたらしく、質問が飛んできた。
なんで見えるんだろう。有能だな。容赦ないな。いや、わかってたけど。

もやを払って、みたくなかったものを目の前に置きなおす。
わたしがいつも怖いのは、信じることと待つこと時間の経過なのだ。
行動することとか傷つくことではなくて。

未来のわたしは、複数の男の人を好きらしい。(←抵抗ポイント)
屋久島のゲストハウスのようなところで暮らしている。
わたしがこの家を始めたらしいのだけれど、経営的に特に何かをしている感じはしない。
毎日来たい人が来て、いたい人だけがいる。
したくないことはせず、したいことをする。
それで生活が成り立つ。
わたしはなぜか裸で、星を見ながら寝たり、海に向かって歌ったりして毎日を気ままに過ごす。
パエリアを食べにスペインに行き、絵を見にエルミタージュ美術館に行く。
お金は必要なだけあり、こどもはみんなで育てている。
風みたいな、暮らし。

「自由」というのは、今の自分が扱いかねているもののひとつ。
ありがちだけど、孤独とセットになっているという点を受け入れがたく、現実に落とすとお金やこどもの問題でかなわないということもある。
一番くるのは、恋焦がれる何かに、いつもあと10cm届かない感覚。
それが、その未来にあった。
手前のブロックばかりがいつも気にかかってモヤの向こうに見える景色。

抵抗ポイントである1行目をなぁなちゃんが掘っていく。
そう、自分では掘りたくないのをたぶんこのひとは知っているのだった。
何人いるのか、年齢はどれくらいなのか、どんな関係なのか。
…答えましたよ、もちろん。
だってこの場を仕切るなぁな様の質問に答えないわけにはいかない笑

でも、口にだしてよかった。
ここで言えなかったら、他に言う場所はなかった。
これを夢見るわたしの居場所が、ここでよかった。
今でよかった。
みんながいてくれてよかった。
放たれた記憶は、わたしの枠を超えて飛んでいく。

全員ではないけれど、その男のひとたちに心あたりはある。
置いてきた過去に住んでいてもう二度と会えないであろうひととか、手を伸ばしてはいけないところにいてたくさんの人を救うであろうひととか、現実じゃないところで交わってきたひとたち。
わたしの中のタブー、コアに関わるところにある記憶。
心あたりのないひとも、エネルギーだけ感じたことがある。

ここではもう誤魔化しようもなかった。
自分だけでは誤魔化すしかなかったから、それがまた心地いい、そう思う。
タブーはもう持たないで、手を放す。

おもしろかったのは、その未来がいつくるかのくだり。
わたしが、「下の娘が小学校4年生くらい(3〜4年後)」と答えると、のりこさんが「きた、2023年の夏。」というのだ。
長女だったら来年小4だなぁとかぼんやり考えてたら、右上の方で男のひとが「は〜?なにぼんやりしちゃってんだよ。そんなゆっくりされてもこっちが困るんだよ。ぼけ。」と急に怒り出した。
どうやら、のりこさんに言わせてみたものの、わたしが「え、無理、お金ないし」とか考えていたら居ても立ってもいられなくなったらしかった。

理想の未来にいるわたしは、インタビュアーのなぁなちゃんに「一番感謝しているひとは。」と聞かれて「元夫」と答えた。
「どんなことに感謝していますか」に「自由にしてくれたこと」と答える。
答えながら、あぁほんとうにそうだと思った。
理由すらほぼ何も伝えないまま彼は家を出ていき、今も頼めばこどもを預かってくれる。父親を継続してくれている。
穏やかな今に感謝する。
わたしは未来の途中にいるのだ、と腑に落ちる。

いろいろなことが脳を彷徨ったけれど、実はその場では喋れなかったことの方が多い。
だから今ここで書いてみた。

この日のこの場しか存在しないワーク。
ものすごい現場に居合わせてしまった!
そんな気持ちでいっぱいだった。
とにかく、すごいエネルギーに満ちていたのだ。

しんちゃんが用意した場所に、なぁなちゃんが命を吹き込み、Kaloさんがその場をとんでもないところに連れて行く、奇跡のコラボだった。
こんなひとたちがいるんだなぁ。
すごいなぁ。
しあわせだなぁ。


脇道の話だけれど、シンクロもすごかった。
わたしの実家は、なぁなちゃんの住む街にある。
たかちゃんとわたしは同じ大学の出身だった。
Kaloさんが昔仕事で関わった会社で、わたしはいま働いている。
屋久島に行く前のわたしは鎌倉に移住を考えていた。
ひで。さんはわたしのコメントを見て、息子くんを連れて行こうかなと思ったらしい。
息子くんとうちの次女はなんだか同じ空気を纏っていて、同じ星から来たのかなと思ったりした。

みんな、来るべくしてここにきたのだと思った。

別れ際、わたしは隣にいるなぁなちゃんに抱きついてしまって、反対側の隣にいる長女は「ママがそとの人にこんなことするの初めて見た」と目を丸くしていた。長女はわたしをよく知っているのだ。

この日以来、なぜか彼女は「かわいい」と言ってわたしの頰にキスしてくる。理由を聞くと、さみしいと言い、けれど笑っている。
わたしというより、去り行く今が愛おしいんじゃないかなと思う。

先日、わたしは、屋久島にひとりで行ってきた。
後ろめたさはなかったけれど、このままスピリチュアルの何かを続けていくことはこどもを遠ざけることになるんだろうか、と実は不安だった。
たぶん、長女もわたしの不安に気づいていて、わたしが離れていきそう、と不安を感じていたみたいだったけど、どうしてあげることもできなかった。
この日、わたしたちからその不安が消えたように思う。

このリトリートでは、女性がすごく生き生きとけれどゆったりとしていて、男性陣のサポートの素晴らしさを感じた。
本質的な男性性の力、というものを現実でここまで感じたことはない。
男性性というものはおとぎ話にしかないという持論を捨てる必要があるらしい。現実の男性をもっと信頼してもいいのかも、とか、助けてくれる人っているもんだなと思ったりした。

こんな風に、気づけばなんだか両手いっぱいに抱えきれないほどの何かをもらっていた。
今も、書きながらあの日に受け取りきれなかったものを受け取っている。 

Kaloさん、しんちゃん、なぁなちゃん、たかちゃん、のりこさん、ひで。さん、名前は書かないけどしんちゃんの娘ちゃんもひで。さんの息子ちゃんもみんなほんとうにありがとう。

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