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世界自閉症啓発デー

投稿しないときは何か月もほったらかしにしているのに、なぜこんなに短いタームで立て続けに投稿しているのかというと…

春休み中で、年度始めの数回の打ち合わせに行く以外は仕事に行かなくていい時期だから、という物理的な事情もありますが、要は早い話が現実逃避なんです(笑)

4月に入り、いよいよ仕事とおばさん大学院生という「二足のわらじ」生活が始まり、授業の自習や、来月の本部キャンパスでの初回オリエンテーションに向けての修士論文の準備などなど、やらなくてはいけない課題が山積みなのですが、どうもなかなか集中できない…💦

これも注意力散漫なADHD傾向と、一度はまるとやるべき課題をほったらかしてでもやりたいことにのめりこんでしまうASDの過集中傾向が、どちらも私の中にあるせいだと思っています(;^_^A

ちなみに昨日4月2日は「世界自閉症啓発デー」でした。
東京タワーや各自治体の市庁舎など、さまざまな場所でブルーライトによるライトアップがされていたようですが、ご覧になりましたか?

続く来週8日までの一週間は、自閉症を含む、「発達障害啓発週間」です。
この機会に、私たちのごく身近にあり、もしかしたら自分の身内や自分自身にも、「障害」とまでは言えなくても、うっすらとあるかもしれないADHD(注意欠如多動症)やASD(自閉スペクトラム症)、SLD(限局性学習障害)の「特性」についての理解をしっかりと深められるとよいなあと思います。

不適応を起こしている子どもや、その子どもを取り巻く家庭や友人関係などの環境を見ていると、診断は受けていなくても根底に発達特性の問題を抱えていて、それが原因となって自己肯定感の低下や人間関係のつまづきを体験し、二次障害としての抑うつ傾向や不安障害、癇癪・パニックなどの行動化を起こしているのではないかと推察されるケースにたくさん出会います。

特に知的障害を伴わないケースだと、発達の問題を抱えていても非常にIQが高く勉強ができ、成績のいい子もいるので、思春期になって不登校や引きこもり・非行・自傷行為などの問題を起こすまで、本人はもちろん家族や周囲にも気づかれず、そのまま来てしまった、という感じの子も多いように思います。

ADHDの場合は、落ち着きのなさや突飛な行動などの問題はあっても、愛嬌があって中にはリーダーもできるようなコミュニケーション能力の高い子もいるので、友達や仲間が多かったりして、大人になって自分で自分の管理ができるようになるにつれ、だいぶ生きづらさも弱まってくるという場合もあるのですが、こと、ASDの特性が強い人に関しては、発達特性の中でも、もっとも本人自身と、その人と濃い関わりを持つ家族や友人・同僚など周囲の人が、ストレスを強く感じやすいのではないかと思います。

WISKなどの心理検査を受けて、はっきりと診断名がつかないレベルであっても、本人が生きづらさを抱え、家族など周囲も苦しんでいるのなら、幼少期のできるだけ早期からのソーシャルスキル・トレーニングなどの「療育」が必要だと思っています。

特に、中学校までの義務教育の間は、「通級教室」といって、普通クラスに籍を置きながら、一週間に1時間とか2時間程度校内の別の部屋で一対一でSSTを受けたり、通常クラスでの不安や困り感に関して個人的なアドバイスがもらえるという、とても良い制度がありますので、必要を感じるご家庭はぜひ希望されたらいいと思います。
(一定の条件や手続き、審査は必要ですが)
「通級教室」に通うことを支えにして、1週間頑張っている子たちもたくさんいます。

最近は、高校や大学でも発達支援の体制が少しずつ整いつつあります。
急に自己管理が必要になる大学進学後、一人暮らしを始めて問題が発覚する子も、中にはいるようです。

発達障害に関しては、精神科医で日本自閉症スペクトラム学会会長の本田秀夫先生のご著書を参考にさせていただくことが多いのですが、先生は特に人とのコミュニケーションや感情のコントロールの問題を抱えるASDの人に関しては、その特性が少しでもあり、本人のストレスが大きく、診断をつけることで必要な支援を受けられるのであれば、診断を出してもいいのではないかと思うとおっしゃっています。
(精神科の先生によってもこのあたりには考え方の違いが多々あるようです。)

優秀なタイプのASDの人の場合、学生のうちは「勉強ができる」というその一点だけでも周囲からの一定の賞賛が受けられるため、学生時代には不適応を起こさずに済んでも、社会に出たとたん、社会ではどうしても人との「報・連・相」のコミュニケーションが必須で、本人にとって嫌なことであっても周囲と歩調を合わせなければいけなかったり、時には相手に譲歩したり、お願いしたり謝罪をしたり、という場面も必要になってくるので、職場に行けなくなったり、メンタルの不調を訴えたり、というような問題が起こってきます。

昨今「発達外来」に大人になってから初めて訪れる患者さんが急増している、というのもそういった事情が背景にあるからではないかと思います。

本当の意味で「発達障害」の概念が一般的に知られるようになったのは、2000年代に入ってからのごく最近のことなので、もしかしたら私と同年代以上の方やご高齢の方の中には、自分がなにかの障害を持っているとは全く思わずに、ただ周囲から「付き合いづらい人」「気難しい人」あるいは「約束が守れない人」「話を聞いていない人」などと思われて、長い間人との付き合いがうまくいかずに、人知れずつらい思いをしつつ孤独感を抱えてきた方もいらっしゃるかもしれません。

また、昭和までの時代は、進学率もいまほど高くなく、人間関係をうまくコントロールする一方で最新のIT機器も同時に扱わなければならないといったような、現代のようなマルチタスクができる人でないと高評価されない時代ではなかったことや、早い時期から専門職に枝分かれして、人とうまく折り合えなくても好きなことだけに打ち込めるような仕事もたくさんあったので、発達特性の問題が今ほど顕在化されずに済んできた、という面もあったのではないでしょうか。

発達障害は生まれつきの「脳の機能障害」=脳の情報伝達系統がうまく機能しない障害であって、本人の努力だけでは克服することが難しい特性です。
すなわち、本人の努力不足や本人の人格・性格とは本来関わりのないものなのですが、もしかしたら、昔はそういった知識がなかったがゆえに、相手の悪意や怠惰・不誠実さによるものだと思い込み、崩壊してしまった親子関係や夫婦関係・友人関係なども多々あったのではないかと思われます。

「多様性」の時代と言われる現代。

人間社会には残念ながら、ほんの少しでも集団と異質な性質を持った人がいると、その人に対して攻撃的になったり、批判したり、閉め出したり、関わりを拒んだり、といった差別や偏見がつきものですが、自分の身近にいるかもしれない「グレーゾーン」や「ライト・グレーゾーン」の人も含めた「発達特性」を持った人を、その固有性・個性を受け入れ、コミュニティの大切な一員として受け入れていくことのできる、温かい社会になったらいいなあと願います。

Ⅰコリント 12:18~27

 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。