「つもった雪」、見えないものへの思い
ずっと前に、この一節を引用したことがある。
当時、この「原田さん」という人がとても生々しく感じられた。原田さんがどうしようもない思いを抱えて、学問にすがっているのだと思っていた。他人事とは思えなかったのだ。
しかし、今になってこの一節を思い出したのは、少し違う気づきに手を引かれてきたからだった。
原田さんにとっての学問とは、風穴だったのではないだろうか。日常生活には現れることのない「異質」なもの。彼が「後生大事に拝んで生きている」学問は、もしかしたら「原田さんの言葉のやさしさ」の源泉なのかもしれない。
注意したいのだが、学問がやさしさをもたらす、と言いたいわけではない。
もしかしたらだけど、原田さん自身にとっても学問は「異質」であり続けたし、だからこそ学問に取り組み続けることは「行」だったのだ。異質なものに触れ続けようとすること、その姿勢が結果として「やさしさ」という形をとって現れているのかしれない。
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さて、いまここで文章を書こうとする以上、「要するに」と言いくるめるのは良い選択ではないだろう。それは異質なものに対して開かれる態度――ではないと思うからだ。ふだんの会話でもできる限り使わないようにしている言葉でもある。「要するに」「結局、」「でも」「なので、」…。
その代わりに、と言ってはなんだが、前回からなんとなく頭の片隅に残り続けていることを話題にしたい。「詩」だ。
わたしにとって詩は、異質なものでありつづけた。前回は、中井久夫氏の文章を引用していた。もういちど引用しよう。
徴候とは「物事の起こる前触れ。きざし。しるし。気配」という意味で使われている。医療の場面では、「主観的な症状(symptom)とは対照的に、病気の客観的な証拠の表れである症状」とされている。中井氏が医師だったことを思えば、この定義も念頭に置いていただろう。
だとすると、次のように言い換えることもできるだろう。散文とは、そこに書かれていることが本体であり、詩とは、そこに書かれていないものが本体だと。対比的に言い換えてみたけれど、うまくいっているだろうか。
それなら、詩こそ風穴、開け放たれた窓なのかもしれない。そこから入り込んでくる「風」のイメージは、次のようなものだ。これも以前引用したものだけど、もう一度あげてみよう。
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こうやって引用を重ねていくのは、私の試みの一つでもある。できるだけ「私は」と始めないこと、「要するに」と言いくるめないこと、そしてこれ。
見ようによっては散漫なままで、書きっぱなしだと思われるかもしれない。だが、円環が閉じるように自分の価値観を固めてしまうのは、私の望むところではない。引用と例示をためらわず、さらには重複さえもためらわなければ、「風穴」は必ず開かれる。そして、世界の多様なバリエーション(変奏曲)を知ることができる。
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ずっと頭のなかを漂っている詩のフレーズがある。紹介されて以来、詩のことについてなにか書こうとすると必ず、このフレーズを思い出している。
見えないものに思いを馳せること、それは「考えてもいなかった」ことに注意しようとすることでもある。つねに新しいものを見たいと思う性向は、閉じることを逃れようとして、だから次のような考え方につよく惹きつけられていったのだろう。
見えないものへの思いは、完結することがない。それはときに「裂け目」「風穴」と呼ばれ、「徴候」を知らせ、「詩」や「やさしさ」となり、「方法」を捉えることがある。