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生魚と自我

綺麗な言葉を告げて去っていった元彼女が実はすでに他の男と同棲していた時にできた曲がある。

悲しみの向こう側の向こう側。どん底の底。

アルプス山脈のクレバスを突き抜けて地殻のマントルまでたどり着きそうな絶望ときたら、処理前の生魚のようにくせのある臭いを放っていたに違いない。

そういう想いや感情をポップにパッケージすることが僕にとっての作詞で、その瞬間をそこに表現することが僕にとっての歌なのである。メロディーはそれをくっつけてくれる糊みたいなものだ。


作詞や歌うことは魚を料理酒に漬け込んで臭みを抜くことに似ている。

素材を生かしてどれだけ美味しく食べてもらえるか。その生々しさを捨てずどれだけ聴いてくれる人のものにできるか。

そこが考えられているから音楽にしろ漫画にしろ「作品」というものは存在し続けるのだと思う。

曲自体が生臭いまんまだとしても、歌う僕自身が自我を処理できていればちゃんとポップになる。

それはスタイルの問題だったりするけれどとにかくどこかで臭みを抜いてあげないと食べられる料理はできないのだ。

逆に素晴らしい作品ができたとしても歌う人間が強烈な臭いを発していたら台無しなのである。


ツイッターで語りまくっているせいかとっつきにくそうな人間だと思われることが多いように感じる。

それはきっと僕のつぶやきが生臭いままだからだ。

でも最近は会ってみると喋りやすいと言ってもらえる。

前まではネットでもリアルでも処理してない魚を食え食えと押し付けていたけれど、今はネットでは「これが食材です」みたいに置いてるだけで、リアルではなるべく食べてもらいやすいように工夫するようになったからだと思う。

ツイッターでも下処理をするべきなのかはまだ僕の中で答えは出ていないのだけれど、今は生魚のままドーンと置くことにしている。


完成した曲はもう食卓に出せる料理だ。

歌を歌う時は、提供する時は美味しく食べてもらえるように余計なものを足さずに込められたものを表現するだけ。

最近はそういう感覚に近づいてきている。
とても居心地がいい。

[この記事の元になったツイート]




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後藤大
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