飲み会という動物園を檻越しで見るのか、動物として慣れあうのか。
どっちの方が楽しいのかな。
一歩引いた位置で見ると飲み会のノリというのはつまらないものです。
周りの人から見れば冷めた行動も動物同士は楽しくしている、そういう風に自分は見える訳です。
酒が入った状態じゃないと心を開けない人達。意識が朦朧としていないと会話すらできないようにも感じる訳です。勿論、そういう人ばかりじゃないですけれども。
上辺の関係性でも酒が入れば仲良くできる。
そもそもの話、お互いが意味のない壁を作っているという話にもなる訳です。これを檻として例えてみましょうか。お酒が入ったら仲良くなれたというのは、多分本来なら素面でも仲良くなれる人達だったという事でもある訳です、お酒の力があったからその「檻」という壁を破壊できた。
裏を返せばお酒の力がなければ、お互い自分の檻の中で分かり合えないという事でもありますが。。。。
守秘義務の日本人らしさ。閉鎖的関係性。
正しくあった方がいい。これを言ったら評価が下がる。
この趣味を公に出したくない。TPOを弁えろ。周りに迷惑をかけるな。
この状態で仲良くなれると思うのか。きっと、それは難しいと思う。
誰もが「自分の世界」という殻に籠ると思う。
正面から向き合わずに上辺だけで、調子の良い事を言うだけ。
嘘の人間関係だからこそ、お互いの壁は壊されることはない。
ゼロヒャクしかないのだよ。そこにお互いの個性など存在しない。
少しでもレールの上を逸れたら、そこで排除の対象になる。
そこに僕達の個性はなくなる。味方の人でさえ敵に見える。
何ともつまらない世界が出来上がるのだ。
お互いの価値観のすり合わせから始まる
これを言ったらアウトかな。素面状態でのコミュニケーションというのはその擦り合わせから始まる。年上だから絶対に敬えというモンスターがいるかもしれないし、秩序側の人間なのか、混沌側の人間なのか、という派閥の確認から始まる。
敵になりえるかもしれない人に対して迂闊な発言はできないであろう。
そこでお酒の力だ。細かい事は気にせずにガツガツと物を言える。
言いづらい事も言えるし、相手のお酒の強さに寄れば都合のいい事も悪い事も忘れるし、最高のコミュニケーションの居場所が作れるだろう。
飲み会というのは動物園
ある意味、個性を全肯定する場所でもあり、個性を全否定できる場所という動物園でもあると思える気がしてきた。仮面を剥いだ哀れな姿を見せつける会。その場所に社会性は存在しない。
動物になり切るか、檻越しで会話するかの二択という話でもある。
楽しい飲み会と楽しくない飲み会というのは、誰が悪者になるか。
ファーストペンギンというリスクを誰が取るのかという話になるのだと思う。一歩出たら楽しい場所かもしれないし、トラウマ級になるかもしれない。表裏一体の結末を持ち合わせている。
話のまとめ
実際の動物園にも良い所と悪い所がある。
獣臭さ。糞尿の匂い。飼育員が頑張っているとはいえ、臭い物は臭い。
慣れれば大したことはないが、無理な人には無理である。どう頑張っても。
可愛い家猫だって、妥協点は存在する。嘔吐もするしね。
それを凌駕するメリットも持ち合わせているからこそ、動物園の存在意義がある。癒されるとか、他の生命体の勉強。身体の仕組みの違い。
様々な種族が集まる楽しい場所にも成りゆるのだ。勉強にもなるだろう。
自分が飲み会を一歩引いた位置で楽しむというのも一つの選択肢。
動物を見ながらワインを飲むのも、また一興であろう。
そこで社会性を失って動物になるというのもまた一つの楽しみ方ではあると思う。要はその人に合った楽しみ方をすればいいという事。
それが僕達の十人十色の個性じゃないでしょうか。