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なんで勉強ってするの?

・勉強はしないといけないもの

 僕は生まれてからこれまで1度だけ勉強を好きになった。本当にその数ヶ月だけ。今思うと、その時は勉強が楽しくて「必要なもの」だと感じられたからだろうと思った。僕は今勉強が必要だと感じている。なぜなら僕たちの先人が経験してきて必要だと考えて「教育」ができたから。では少し僕がこの考えに行き着いた経緯を綴ろうと思う。

 「勉強はしないといけないもの」というこの言葉自体は間違っていない。しかし、伝え方と受け取り方の両方に問題があるからやけに嫌な言葉に見えてくる。ここを直さない限り、日本は格差がより広がって騙されるものが溢れ、世界にも負けて、教育そのものがいらないものという考えが広がる可能性が出てくる。しかしこれは実際問題、現状の教育がどうなっているのかは分からない。極端な僕のある種妄想であり、格差や日本に関しても上の者が機能すればよくて、日本も日本であり続けられれば大丈夫なのである。僕の性格上、人を見捨てられる性格ではないため、物事を個人よりも全体で見ることが多い。かといって個人で考えることが悪いわけではなく、僕も正直いざとなれば個人で考えることになる可能性もある。だから僕は「勉強はしないといけないもの」という言葉で自分を騙して、自分の脳をガチガチにしてしまった。


・やればできる

 小学校の時の勉強は意外とできるものでここでもあまり触れる必要がないからさらっとだが、僕の成績は普通だった。可もなく不可もなく。僕としても特別テストのためとかで勉強をした記憶もない。勉強したとすれば1年通った塾。これも野球同様、兄の影響で始め、兄の影響でやめた。だから「勉強」においてはなんの記憶もない小学生時代だった。

 そして僕の勉強歴史で1番輝いたのが中学3年生の時だ。中学生になってなんとなく勉強しないとまずいとは思うようになっていた。しかしそんな気持ちも色々な欲望と重なって、やはり勉強は「だるい」ものだった。するとみるみるテストの成績は落ちていき、2年生の最後のテストで数学と英語で30点台を取ってしまった。周りの先生、友達、両親から見て「意外」だったらしい。でも僕はさすがに少しはびっくりしたが、振り返るとこうなることは予想できていた。でも僕には勉強をやる意味が分からなかったからこの点数を取ったとしても「やばい」とは思ったが「まずい」とは思わなかった。このニュアンスの違いはなんとなく感じてほしい。

 親にはこっぴどく叱られた記憶がある。さすがに「まずい」と思ったんだろう。自分の息子だから恥ずかしいという思いよりも、僕を考えてこのままだったら自分が将来恥ずかしい思いをすると思ってのお叱りだった。この結果により僕は再び塾に通うことが決定した。でも僕は塾に通うなら絶対に決めていることがひとつだけある。それは「個別」であるかどうか。完全に持論だが、普段学校で集団で生活しているにも関わらず、なぜまた集団で受けないといけないのかが分からなかった。これを聞くだけでも自分がいかにおかしな人間かがわかる。だから親がこの塾がいいと言ってきても全て集団だったから頑なに却下した。なんとか要望を受け入れてもらい、友達も何人か通っていたこじんまりとした塾に通うことにした。するとどうだろう。勉強が楽しくなった。この塾には順位付けをするとかそんなものは存在しなかった。しかし理由はそれではない。「しないといけないもの」ではなくなったからだ。あの塾がどういう理念だったりを掲げていたのかは分からないが、確実に言えるとすれば「褒める」ということに関してでは塾長をはじめ、どの先生も変わらなかった。ただ優しいというわけではなく、「怒る」ではなくそれは「叱る」だった。僕自身に対しても勉強においても同じ間違いをしないようにしてくれた。まあ先生によって合う合わないはあったからそこは何度か変えてもらった。

 僕の勉強に対する姿勢、それによって飲み込むスピードと解くスピードは明らかに変化した。元が80ではなく30だから伸び代がすごかった。僕は中学3年生初めのテストで全部の教科75以上、そしてなんと30点だった数学は80後半の点数を取った。数学の先生には返却されるときに「カンニングをしただろう」と警戒された。しかしそれは僕にとって最高の褒め言葉になった。それ以降多少落ちる教科はあったが数学に限っては1年間ずっと同じあたりの点数をキープできた。ちなみにいうとかなり勉強した。頭がいい人ほどではないかもしれないが、その時は自分が1番勉強したと思っていた。その時だけだが。

 ここで僕は初めて自分で自分は「やればできる」ということを理解した。そしてそれは「自分でやらないといけない」ことも理解した。ただ僕はもうひとつ自分を理解しないといけないところがあった。それは「気分屋」なところだ。だからやらない時はやらない。高校に入ったら逆戻り、大学に入っても初めはよかったが現在まで逆戻りを繰り返した。


・勉強は「自分で」しないといけないもの

 僕は最近勉強が必要だと感じ始めた。ブログやこのnoteにも勉強が必要だと気づいたことを書いている。これは長々と書くことでもなく、知識を得たかったり、インプットやアウトプットしたり、世の中を知りたいと思ったときにこの小学校から高校までの勉強って意外と必要だと感じたからだ。それを何かで証明はできないが、実際に今僕が世の中のいろんなことを知りたいと思って理解しようとしたり、発信しようとしても基礎が足りないからスピードが遅くなってしまうことをすごく感じた。ただ、こんなことを小学生で気づく子供はなかなかいない。だから勉強が必要かどうかは後で気づけばいい。でも勉強の楽しさ、そして勉強は「自分でしないといけない」ということだけはわかっておく必要がある。いくらその塾が「良い塾」と評判がよくて入っても結果としてそこで勉強するのは「自分しかいない」ということだ。勉強する意欲さえあればのちに活きてくる。

 でも今の小学生はかなり考えをしっかり持つ子も出てきた。ということは教え方、考え方次第では、僕がさっき「勉強が必要かどうかは後で気づけばいい」と書いていたが、この成長速度ならこれを感じれる年齢もぐんと下がりそうだ。別に全員それを理解しろみたいな言い方はしない。なぜならそんな言い方をすれば「人それぞれでいいじゃないか」という発言をする人があるからだ。

 ちなみに言っておくが大体この手の発言を最後にする人は、自分の考えをまとめきれていない傾向にある。相手を気づかってかは知らないが自信がないのだろう。この言葉も使いどきというか簡単な使い方はできないと僕は思う。なぜならこの言葉が全てをまとめる言葉になってしまうと簡単な話、「善悪」の区別もなくなるからだ。だから僕は個人で物事を見つつも全体でものを考える。これが大事なことで、人間は人間やその他の動物、生物と生きているうちは必要なことだと僕は思う。

 少しそれてしまったが、最後に勉強をしてこなかったからこそ言わせてほしい。勉強は必要だ。学ぶことを忘れてはいけない。これは強制ということではない。正しく言うと、「自分で学ぶ必要がある」ということだ。自分が生きるなら。


・ついでに

 昨日の反動で今日はだいぶ書いた。しっかり書けたし、僕の中ではだいぶうまくまとめられたのではないかとも思っている。

 まあそんなことはいいが、勉強の必要性みたいなことを僕なりに経験から書いてみた。自分の経験を書きながらだと改めて自分がどういう人間でどういう経験を経て今の考えに至っているのかを理解できるからとても僕にとってはいいことだと感じた。今後も自分の経験から書くことを増やしていきたいと思う。



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ごりょう
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