ああ、お互いに年をとって行くね
Kindleで『吾輩は猫である』を読みながら帰る。猫が自分の尻尾を拝もうとしてぐるぐる回るくだりなどが、だいぶとち狂っている。
行きたいところへ行って聞きたい話を聞いて、舌を出し尻尾を掉(ふる)って、髭をぴんと立てて悠々と帰るのみである。ことに吾輩はこの道に掛けては日本一の堪能である。草双紙にある猫又の血脈を受けておりはせぬかと自ら疑うくらいである。蟇(がま)の額には夜光の明珠(めいしゅ)があると云うが、吾輩の尻尾には神祇釈教恋無常(じんぎしゃっきょうこいむじょう)は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする一家相伝の妙薬が詰め込んである。金田家の廊下を人の知らぬ間に横行するくらいは、仁王様が心太(ところてん)を踏み潰すよりも容易である。
この時吾輩は我ながら、わが力量に感服して、これも普段大事にする尻尾の御蔭だなと気が付いて見るとただ置かれない。吾輩の尊敬する尻尾大明神を礼拝してニャン運長久を祈らばやと、ちょっと低頭して見たが、どうも少し見当が違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならん。尻尾の方を見ようと身体を廻すと尻尾も自然と廻る。追付こうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へ馳け出す。なるほど天地玄黄を三寸裏に収めるほどの霊物だけあって、到底吾輩の手に合わない、尻尾を環る事七度び半にして草臥(くたび)れたからやめにした。少々眼がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角が分らなくなる。構うものかと滅茶苦茶にあるき廻る。
夏目漱石『吾輩は猫である』[Kindle版]青空文庫,Kindleの位置No.2118
「蟇(がま)の額には夜光の明珠(めいしゅ)」て何?と思ってgoogle検索しても、この『吾輩は猫である』の文章ばかりがヒットし、その句の意味を解説する頁は見当たらない。漱石は独自の言い回しが多く、それが当時実在した慣用句なのか、おふざけで創作した言葉遊びなのかよくわからない。青空文庫は注釈がないので、その点はお金出して注釈付きの文庫本を買ったほうがよいだろうと思う。奥さんは(漱石の文章は)言い回しが古臭くて読みづらいとよく口にするが、その訴えはごもっとも。文字面の雰囲気でなんとなく察するか、適当に読み流してしまえば、そのうち慣れてしまうのだが。
早めに帰宅したので、ふだん料理をしない男がたまに作る料理の定番その二、野菜炒めをさっと作り、洗濯機を回してジムに行く。
トレーニングしながら『ミメーシス』。アウグスティヌス『告白』の一節の引用。それまでの古典文学の理知的・修辞的文体と、ユダヤ・キリスト教の劇的表現の2つの世界を初めて意識的に統合したのが彼ではないかと。後者を示す証左に、著者は聖書によくみられる文章の並列構造にスポットライトを当てる。ここに来て初めて、卑近な文章テクニックの話が出る。
古典ラテン文でよくおめにかかる、因果関係を示すか、あるいは少なくとも時間関係を示す、従属(〔ともに〕とか〔それから〕といった語を用いることもあれば、奪格の絶対用法や分詞構文を用いることもあるが)の代わりに、et(そして)を含む並列構造が用いられている。「彼が目を開けると······
衝撃をうけた」とか「彼が目を開けると······衝撃をうけた」というよりも、「彼は目を開け、そして······衝撃をうけた」という方が劇的な効果がはるかに大きいのである。
E・アウエルバッハ(著)篠田一士・川村二郎(訳)『ミメーシス 上 ヨーロッパ文学における現実描写』筑摩書房,p.128‐132
そののち、著者はトゥールのグレゴリウスの『フランク人の歴史』の文章を引用。先行するラテン文学と比較し、その文章がラテン語としていかに稚拙か、その欠点をとうとうとあげつらった後で、その文体の革命性、文学的重要性を称揚する著者。対象を谷底に突き落とした直後に、崖からぐぐっと引っ張り上げるかのよう。自分の文章術が稚拙であることを知りながら、それでも、それまでの誰もが描こうとしなかったものを描かずにはいられなかったグレゴリウスの意思に感銘を受ける。。
彼の言語は整理において拙劣であるか、あるいは全く整理しない。しかし、彼の言語は事件の具体的な面に生きていて、その事件に登場する人々と共に話しその人々の間で話す。そしてその言語はその人々の喜び、苦しみ、軽蔑、怒り、あるいは彼らの中にたまたま燃え盛っているいかなる情熱にも、力強く多様な表現を与える。〈中略〉
彼はしばしば自分の文学的訓練が不十分であるにもかかわらず向こうみずにも著述することをわびるが、あるところで(第九巻第三十一章)自分の文章をいかようにも変えることのないようにという後世の人々に対するまじめな要求を付け加えている。〈中略〉
その内容は学校の修辞学に対するあてつけであり、その修辞学が中世ラテン語においてさらに発達することを予期しているかのようである。「神に仕える者よ、たとえあなたが誰であろうとも(と彼は後世の人々に呼びかける)、もしも非常に学問があるためにわたしの文体を百姓くさいと思われても、わたしはなおあなたに御願いする。わたしの書いたものを破棄しないで下さいと」。〈中略〉
さらに別のところで、彼は母を夢の中で自分のもとに出現させ、彼に書くことを促させ、彼が自分は文学の修養に欠けていると反対すると彼に対して次のように答えさせる。「お前にはわからないのか、お前流儀の書き方が、その理解し易さゆえに、私たちにいたく尊重されていることが?」
E・アウエルバッハ(著)篠田一士・川村二郎(訳)『ミメーシス 上 ヨーロッパ文学における現実描写』筑摩書房,p.162‐163
部屋に戻ると奥さんが帰宅している。一緒に洗濯物を干し、野菜炒めを食べる。食後はコンビニまで散歩し、デザートにココナッツミルクのミニパンケーキを1個買う。それを部屋で、カフェラテと一緒に、二人で分け合って食べる。
そのあとはウィラ・キャザー『大司教に死来る』。
帰省の朝、車の用意がととのい、荷車に防水布がかけられ、牛の軛(くびき)をつけ終わると、夜明けからみなを急きたてていたジョセフ神父が、不意にぐずぐずしはじめた。彼は司教の書斎へ行くとすわりこみ、さして重要でもないことをしゃべっていた。まるで、なにかしのこした仕事があるかのようだった。
「ああ、お互いに年をとって行くね、ジャン」短い沈黙のあと、彼はだしぬけにこう言った。
司教はにっこりした。「うんそうさ、もう若くはない。こうして別れるのが、いつかは最後になってしまうだろうよ」
ヴァイヨン神父はうなずいた。「僕は、天主様さえお望みならば、いつでも用意はできている」彼は立ち上がり、友の顔を見ずに話しかけながら、床をあちこち歩き始めた。「しかし、ジャン、今までのところ、大して悪くもなかったね。僕たちは、昔の神学生時代にやりたいと思っていた計画をやり遂げた。少なくともその幾つかはね。若い時の夢をみたす、人としてこれは最上じゃなかろうか。どのような世間的な成功も、これには及ばんだろう」
「ブロンシェ」司教も立ち上がりつつ言った。「君は僕よりましな男だ。君は恥も誇りも棄てて、どんなに多くの霊魂を刈り入れたかわからない――そして僕はいつも冷淡な――君がよく言ってたように、衒(てら)い屋だ。後世、もし僕たちの冠に星でもいただくようになったら、さぞかし君のは、星座をなすだろうよ。僕を祝福してくれたまえ」
司教はひざまずいた。ヴァイヨン神父も彼を祝福すると、代わって祝福をうけた。二人は過去を想い――そして、未来を想って相抱いた。
ウィラ·キャザー(著),須賀敦子(訳)『大司教に死来る』河出書房新社,p.234
ああ、残りあと少ししかない、あと少しで読み終えてしまうと思いながら頁をめくり、日付が変わり、それでも頁をめくり続けて、読み終わる。物語の最初から登場する主人公の親友にして戦友、ヴァイヨン(別名ジョセフ)神父との馴れ初めが最終章にして初めて描かれるのは、本当にずるい。なんて心憎い構成。最期の主人公の回想などは、もはやずるいを通り越して卑怯である。こんなの感動する。本を閉じ、しばらく余韻に浸る。奥さんが、来月の帰省旅行の件で私に何度も話しかけるが、生返事しかできず。彼女は、さては余韻に浸って(私の話を)聞いてないなと呆れ顔をする。
本を読んでいる間、その束の間、一人の人間の一生にずっと寄り添っているような感覚があった。色んな人たちとの出会いがあって、それぞれが当たり前のように過ぎ去ってゆく。善人も悪人もいたような気がするが、その誰もが善人でもあり悪人でもあったような気がした。人生が終わろうとするとき、人生が始まろうとしていた若かりし頃を思い出す。そこには、通り過ぎた過去に対するいつくしみがあった。読みながら、どこか須賀敦子の『コルシカ書店の仲間たち』のことを思い出していたが、その共通点を長澤唯史が本書の解説でずばり指摘していて、やっぱり、となるほど、が一遍にやってくる。若かりし頃の須賀敦子が大学の卒論としてこの『大司教に死来る』を翻訳し、その結果のひとつに『コルシカ書店の仲間たち』が産まれた、その因果に立ち会えたような気がして、とても嬉しい。作家が影響を受けた作家を数珠繋ぎのように辿っていく愉しさは、こういう瞬間にある。
SmartNewsのトップに並んだ記事。
・宿題提出せず個別指導、始業式後に中3男子自殺(読売新聞)
・幹部振り回す衝動的指示=シリア大統領暗殺命令もートランプ政権内幕本発売へ(時事通信社)
・英仏「ホタテ戦争」、フランスが海軍の介入を示唆(CNN.co.jp)