攻撃よりも、犠牲の形に人間が現れ出る
凡庸な猛暑日。
昼、ドトールでヴォルテール『寛容論」読了。訳者の言葉に納得。
笑いながら怒る。珍妙な芸のようだが、本書を読むと上等なアジテーションにはこれも必要だとわかる。アジテーションとは自分の怒りを表明して、ひとを行動にかりたてることだが、怒りをむきだしにすればいいわけではない。また、正論を唱えても、まじめぶった語り口ではたんなる説教と同じで、誰も聴いてはくれない。
ヴォルテールの、どことなくふまじめな感じがヴォルテールの善さなんだろうな、と私には思われた。ヴォルテールは笑っている。「卑劣なやつを叩きつぶせ」はヴォルテールの名文句として知られる言葉だが、かれはそういいながらも、顔は笑っている。話の通じない連中を嘲笑しながら、話を通じさせようとまじめになっている自分をも笑う。こうした、わかるひとにはわかる、という感じの呼びかけが多くの読者を動かしたのだろう、と私には思われる。
ヴォルテール (著), 斉藤悦則 (訳)『寛容論(光文社古典新訳文庫)』[Kindle版]光文社,Kindleの位置No.3595
続いてKindleで、夏目漱石の『吾輩は猫である』を読み始める。帰りの電車の中でも読む。猫のとぼけた味わいに、終始、顔がにやつく。スマホを手にして独り薄ら笑いを浮かべる姿は、傍目から見て大層不気味に違いないが、それでも読み続ける。
吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活潑な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はない。
夏目漱石『吾輩は猫である』[Kindle版]青空文庫,Kindleの位置No.60
この小説を、苦しみ、のたうち回りながら執筆していた漱石(をモデルにしたと思われる主人公)の鬱屈が『道草』に描かれている。ユーモアの爆発によって必死に神経の病を封じ込めようとした作家の苦闘を想像すると、飄々とした文章のどれもが味わい深い。
帰宅途中の路地裏で、再びにゃんたろうに出くわす。近付くと、やはり逃げ出す。三日前の出来事は、真夏の夜の夢だったのかもしれない。
夜、奥さんと蔦屋書店併設のスタバ。先日読んで面白かった建築家・彦根明の『最高に美しい住宅をつくる方法』を本棚に探しに行くが、見当たらない。売れたのか。棚から類似本を手に取ってみるが、どれも暮らしを想像する悦びに欠ける。あの本でなければ駄目だ。諦めて席に戻り、PCで一昨日の日記を書く。
日記を書き上げたあと、再び本棚に向う。『最高に美しい住宅をつくる方法2』を発見。席で読まれていた本が、棚に戻されたのか。写真も良いが、写真に添えられた素朴な文章も良い。
木の幹は茶色という固定概念に捉われていないだろうか。森の木々に目をやると、その枝や幹の色はむしろグレーや黒に近い色であることに気付く。もちろん樹種や光の加減によって一概にはいえないけれど、絵の具やクレヨンに用意されている茶色であることは少ない。外壁に黒というと威圧感があるような印象を持ってしまうが、緑との相性は素晴らしい。天然素材を原料とした黒い壁と庭木の緑の相性が良いのは、もともと自然界にある組合せであるから当然のことであるとも言える。
彦根明『最高に美しい住宅をつくる方法2』エクスナレッジ,p.40
敷地面積や斜線など、何かと場所の制約を受ける都市の暮らしを前提にした設計が多い。制約を逆手にとった創意工夫が楽しい。
敷地の中にL型の家を計画する例は非常に多いのではないかと思うが、その庭を囲ってしまうとL型中庭の家になる。塀を高くして閉鎖的になっては良くないが、緑をあしらうなどして庭を活かすことができれば、密集地にあってカーテンの要らない生活をすることも可能となる。
同上,p.51
夜が更ける。1/3ほど読んで棚に戻す。もう帰宅しても良いと思ったが、スマホで日記を書いている奥さんが、もう少し店にいたいと言う。軽い時間潰しの気持ちで、彼女が絶賛していた小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』を読む。読み始めてわずか数頁で、この小説は間違いないと確信する。文章は、静謐で品がある。何より、作家の想像力。挿話の細部の隅々に、作家の非凡な発想がきらりと光る。
彼らの住む家は、両隣に押し潰されそうなほど細長い三階建てで、てっぺんに申し訳程度に三角屋根が載っていた。その細さゆえ、地元の郵便配達人でさえ番地を見落とし、届ける手紙を持ったまま素通りしてゆくのもしばしばだった。隣との壁の隙間はようやく掌を差し込めるほどしかなく、奥にはひんやりとした暗闇が広がっていた。昔々何かの拍子にそこへ入り込んだ女の子が出られなくなり、大人たちが心配してあちこち探し回ったが結局見つけられず、女の子はそのまま人知れずミイラになって今も壁に食い込んでいる。などという噂を口にする人もいた。近所の子供たちにとって、「あそこの隙間に押し込めるからね」と言われるのが一番恐ろしい脅し文句だった。
小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋‘,p.14-15
こうした挿話が、きちんと後に活きる。単なる伏線回収ではない。細部と細部が重なりあって、響きあう、交響曲を構築するような美しさがある。帰り道、やや興奮して、奥さんとこの小説の素晴らしさについて語り合った。
その後ジムに行き、『猫を抱いて象と泳ぐ』の続きを読む。少年がチェスと出会う軌跡の見事さに、溜息を漏らす。出会いの瞬間に差し掛かり、固唾を呑んで頁をめくる。
「チェス?」
少年は問い返した。それが何を意味しているのか分からないまま、言葉の響きがいつまでも消えずに耳の奥で渦巻いているのが感じていた。
「そう、チェスだ。木製の王様を倒すゲーム。八×八の升目の海、ボウフラが水を飲む象が水浴びをする海に、潜ってゆく冒険だ」<中略>
「ここでチェスを指したあと、一人でプールへ泳ぎに行ったんだ。ヒートアップした頭を冷ますのには、プールが一番だって言ってな。冷たい水に浸ると、ぐっすり眠るんだそうだ。チェスとプールだけが楽しみの男だった。奔放に攻撃するスタイルの持ち主だが、それに見合う犠牲を払う勇気も、ちゃんと備えていた。チェスは攻撃よりも、犠牲の形に人間が現れ出る。立派なチェスプレーヤーであり、立派な運転手でもあった。あの晩、俺が引き止めるべきだったんだ。もうそろそろ寒くなってきたぞ、いい加減にしとけよ、ってな。あの一瞬だけ、犠牲を払うタイミングが遅れた。もう取り返しがつかなかった。どんなにささいなミスだと思っても、絶対に許してもらえない時がある。チェスはそういうゲームだ」
小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋,p.41-42
攻撃よりも、犠牲の形に人間が現れ出る。これほど端的にチェスの魅力を伝える表現があるだろうか。将棋のルールとは異なり、失われた駒は、二度と盤上には戻らない。喪失の掟が、特別な意味を帯びる。
チェスを通じた少年とマスターの交流は、温かくて、どこか切ない。出会いの最初から二人の別れの予感がして、読みながら胸が締め付けられる。
これが、少年とチェスとの出会いだった。男はチェス連盟からマスターの称号を与えられているわけでも、国際トーナメントで活躍したわけでもない、ただの平凡なチェス指しだが、チェスとは何かという本質的な真理を心でつかみ取っているプレーヤーだった。キングを追い詰めるための最善の道筋をたどれる者が、同時にその道筋が描く軌跡の美しさを、正しく味わっているとは限らない。駒の動きに隠された暗号から、バイオリンの音色を聴き取り、虹の配色を見出し、どんな天才も言葉にできなかった哲学を読み取る能力は、ゲームに勝つための能力とはまた別物である。そして男にはそれがあった。一回戦であっさり敗退しながら、ライバルたちが指す一手一手の中に一瞬の光を発見し、試合会場の片隅にたたずんで誰よりも深く心打たれている、そんなプレーヤーだった。
小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋,p.43
最後の一文が良い。とても良い。試合会場の片隅で、独り静かに魂を震わせる男の姿が目に浮かぶ。だからこそ、その感動を分かち合える相手と出会えた歓びに、読んでるこちらまで胸が一杯になる。
マスターが見抜いた少年の最もすぐれた能力は、彼が一つの間違いから実に多くを学ぶことだった。チェスを覚えはじめの子が陥りがちな罠に、少年もことどとく引っ掛かったが、普通の子が一刻も早くそこから脱出しようとしてもがくのとは違い、彼は罠に身体を預けたまま、その位置や形状や手触りをじっくり味わうのだった。そして二度と同じ穴には落ちなかった。
小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋,p.59
罠に身体を預けたまま、その位置や形状や手触りをじっくり味わうのだった。という比喩表現にも痺れる。相当格好良い。作家は、「罠に堕ちる」という定型句に対し、罠に堕ちたそのあとの姿まで、想像をふくらます。その盲点をつくような発想によって、見事に少年の才能を言い表している。書き写している今でも、比喩の巧みさ、その確からしさの精度に、溜息が漏れる。
少年は詩がどんなものかよくは知らなかったが、アリョーヒンの棋譜から立ち上る朝霧のような静けさ、風に震える花弁の可憐さ、一瞬を貫く稲光、大地を吠えさせる風のうねり、暗闇に浮かぶ月の孤独、などを詩と評するのならば、詩というものは素晴らしい宝石であるに違いないと確信した。少年にとってアリョーヒンの一手一手が胸に染み込む詩句だった。
小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋,p.79-80
一文一文が胸に染み込む詩句のような小説。この本を読んで良かった。まだ読み終わっていない癖に、何度もそう反芻する。
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