元気になったのは錯覚だったのかもしれない
心配なことがある。
それは「私は自分でも気付かないうちにがんばりすぎているのではないか」ということ。
自分では適度に手を抜きつつしっかり休養しつつゆっくりと、でも確実に前を向いて歩いているつもりでいる。
でも本当にそうだろうか?
前を向いているつもりで少しずつ自分でも気付かない速度でゆっくりと下降していはしまいか?
頑張りすぎていないつもりでいても、実際には「いつまでもこのまま休養しているわけにはいかないのだ」「早く元気にならないと」と焦りを感じているのではないか。
実際この前受けたマッサージではいつも担当してくれるセラピストの方が引くほど肩甲骨が凝っていて、かなり心配してもらった。自分では去年よりも格段に身体が緩んできていて調子がいいと自負していたのにも関わらず。
私は元気になってきたんじゃなくてただ単に自分の疲れを認識できていないのではないか。もしかしたらこれが鬱の始まりなんじゃないか。
そんな予感に怯えている。
でもそうなったとしても全く驚かない。
だってそうじゃないか。
長年精神を患った夫との狂気の生活からようやく離婚して離れられると思ったら死なれてしまった。ようやく解放されると思ったら地獄に突き落とされたのだ。
この衝撃たるや。
たった一年やそこらで癒えるレベルの傷ではなかったのだ。むしろ今私が鬱になっていない方が不思議だと思える。それほど酷いことが実際に起こったのだ。
あまりの衝撃に私は混乱して自分で自分の傷を推し量ることができなかった。
周りの人は好き勝手なことを言ってくる。
「夫はあなたのために死んだんだ」とか「夫に対する感謝が足りない」とか「お母さんなんだからがんばりなさい」とか。
そんな言葉を浴びせられて私はどんどん麻痺していったと思う。麻痺しなければ生きられなかった。
夫が亡くなって一年半が過ぎ、ようやく私は自分が傷ついて当然の酷い仕打ちを受けたのだと認識することができた。
その傷の深さを認識するとともにそのダメージも私が想像しているより何倍も深くて深刻だということに気付いたのだ。
たった一年半、療養したからといって元気になれるわけがなかった。元気になったと思っているのならばそれは自分に鞭を打っている何よりの証拠なのだ。そんなものは錯覚だ。早く元気になりたいから元気になったふりをしているだけだ。
もし誰のことも気にせず、子供のことも気にせず、お金のことも気にせず、本当に元気になるまでずーっと休んでいていいとしたら?
私は今だって何もせずに毎日泣いて暮らしたい。ご飯も作らずに散歩にもヨガにも行かずに、子供とも遊ばずに、ずーっと自堕落に寝ていたい。
私の表面の元気さなんてまやかしだ。
身体はとても正直で、まだ疲れていると教えてくれる。まだがんばらなくていい。もっと自分を労っていいと身体は教えてくれている。
頭はすぐに錯覚するから、私はこうやって身体を診てもらって身体に聴いてみて本当に良かった。
このまま突っ走っていたら?私はその先の崖から真っ逆さまに転がり落ちていただろう。
まだ焦らなくていい。止まっていい。休んでいい。ゆっくりでいい。
そう自分に言い聞かせる。