見出し画像

ADHDなわたし/必要だったのは安心感

わたしは幼ないころからドジでおっちょこちょい、小さな失敗をくり返してはいつも母親に叱られていた。

母親は若くて未熟で余裕がなかったから、わたしの失敗(お水をこぼしたりお茶碗を割ったり忘れものをしたり)に心底うんざりしていた。

そしてことあるごとにこう言った。
「あなたはおっちょこちょいだから、ちゃんと見て。こぼさないように、割れないように、忘れものしないように、ちゃんと確認して!」

これはわたしのからだに刻み込まれていて、いまでも忘れ物をしないように確認するときには母の言葉がよみがえる。


確かにわたしは不注意だったと思う。それはADHDの特性だったのだろう。
でもそれと同時にわたしはいつも緊張していた。
不安で焦っていて緊張でからだが固まっていた。

そんな状態では誰だって手元が滑ったり忘れものをしたりするのではないだろうか?

そう、わたしには安心が足りていなかった。

もし安心があれば、わたしはあんなにも失敗を繰り返しただろうか?
きっとそんなことはないと思うのだけど‥‥


いまは大人になって、たくさんの失敗を経験したおかげで、じぶんの失敗しそうなシチュエーションでは注意深く確認することができる。
なによりいまは安心していられる。

じぶんのからだで安心を感じられるように地道に神経を鍛えたからだ。
これは本当なら幼少期、親によってもたらされるはずのものだった。

わたしたちは生まれながらに安心を感じることができるわけではない。
安心を感じる神経は環境によって育まれる。

親がこどもに繰り返し安心を与える。
それは優しい呼びかけであったり、寄り添う言葉であったり、温かいハグであったりする。
そういった働きかけを繰り返し親からやってもらうことによって、安心を感じる神経が育っていき、そのうちこどもはじぶんの力で安心を感じることができるようになる。

でもわたしの育った環境ではそれがなかった。
安心がどこにもなかった。
なぜなら親もまた安心を感じる神経が育っていなかったから。
いつ怒鳴られるか分からないから、いつもからだをこわばらせて緊張していた。
つねに自信がなくて不安で焦っていた。

そんな状況では失敗しないほうが難しいよ。


幼ないわたしに必要だったのは、失敗を注意喚起する言葉ではなかった。

わたしに必要だったのは安心だった。


いま目のまえに、失敗を恐れてビクビクしている小さなわたしがいたとしたら
抱きしめて「だいじょうぶだよ、ゆっくりやってごらん。」と伝えてあげたい。
そうしたら小さなわたしもきっとできるはず。




ちなみにいまは環境調整と合わせて自分の取り扱いも分かってきたから、だいぶうまくこの特性と付き合えるようになっている。
わたしの数々の失敗から導きだした
ADHDなじぶんのトリセツはこちら↓

ここから先は

0字

わたしの経験と気づきを赤裸々にお届け。 有料記事3つ読むならこちらのほうがお得! ちょっとしたおやつ食べたつもりで 気軽によってってくださいな。 1記事68円以下だよ〜

わたしの人生のテーマであるセクシャリティー、毒親、癒し、統合、死別、共依存などについて綴ります。目標月10本以上更新。みなさんの応援がわた…

うれしいです!!!!