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【短編小説】路地裏しりとり

 商談が押しに押して、左府さふ中学校の同窓会会場である地元の居酒屋の暖簾をくぐった時には、開会から既に1時間が経過していた。
 十数年ぶりに見る同級生の面々はどれも赤く火照っていて、姿形が大人になっただけで、笑顔は当時のままに騒いでいる。その光景の懐かしさに浸りながらも、僕の目はユッキーの姿を探していた。
 やっぱり、見当たらない。
「おお! 待ってたよ、夏木なつき! ビールでいい?」
 かけいが、僕を見付けるやいなや、手を挙げて呼んだ。筧は元生徒会長で、誰よりも同級生との繋がりを保とうとしてくれている。今回の同窓会も、筧が幹事だ。
 うん、と、筧に会釈で返答し、座敷の小上がりの前で靴を脱いで揃えていると、「どうせバラバラんなっちゃうんだから」と野次が飛んできた。この空気感に、少しづつ学生の頃の感覚が戻って来る。
「遅くまで仕事大変だなあ。お疲れさん」
 くたびれたスーツの上着を脱ぎながら筧の隣に腰かけた僕を、筧が労う。かつてより、随分服装が重くなった。見渡せば、何人も仕事帰りらしき同級生がいる。スーツは本心を隠す為の鎧だと聞いたことがある。特に営業は。でも、この場ばかりは、同級生の緩んだネクタイや腕まくりされたワイシャツが、学ランに見えた。
「僕だけじゃない、皆大変だよ」
「いや、こん中じゃお前が一番大変。間違いない」
「そんなことないでしょ。あいつなんか、会社の名札首からかけたまま飲んでるよ。っていうか、あれ大丈夫なの、社名提示しながら叫んでるけど」
 遠くに立つ、上裸の酔っぱらいを指差す。お調子者ポジションだった、紙山かみやまだ。大手運送会社の名札で右乳首を隠して、「伊達政宗だてまさむね!」と喚いている。
「まあ、あいつもあいつで苦労してるみたいだけどさ。先月離婚したばっからしいし。でも、今日一番働いてたのは、最後に来たお前だよ」
 注文した生ビールが話しに挟まる。
 僕が最後、ってことは――。
「ユッキーは来ないんだ」
 思わず言葉がこぼれる。ジョッキに並々と注がれたビールの泡が、持ち手を掴んだ拍子に凍ったガラスの側面に伝う。僕はそれを口で追うことなく、ただ、眺めていた。
 筧は「ユッキー……」と呟いて少し悩んだあと、「ああ、山城やましろか」とすぐ答えに辿り着く。山城幸彦ゆきひこ。幸彦をもじってユッキー。そういえば、そう呼んでいたのは僕だけだったっけ。
「山城も呼んだんだけど、仕事で遠方に飛んでるから無理だって」
「連絡先知ってたの?」ユッキーが急な転校してから、連絡先を知っている同級生はいなかったはずだ。家の電話すら通じなかったんだから。
「それがホントたまたまでさ。俺建設会社で現場監督やってるんだけど、その現場各地で職人さんを派遣してもらうんだよ。いわゆる、とび職って人たち。そんで、つい去年だよ。長野に大学建てるってなって現場行ったら、びっくり! 山城が職人さんで来てたってわけ――」夏木のビール冷めちゃうよ! と誰かが筧に声を飛ばす。
 ビールは元々冷めてんだよ、とか、いつの間に夏木来てたの、とか、老けたなあ、とか、口々に騒ぎ立てる。でも、音は届いても声は届かない。中学を2年に上がる少し前、もういくつ寝れば春休みだと浮かれていた頃、ユッキーと最後に会った夜の記憶が頭を埋め尽くして、耳を塞いでいたんだ。
 仕事、してるのか。元気に、生きてるのか。それなら、良かった、よね。
「それじゃあ」と、筧がジョッキを片手に立ち上がる。
「これで全員揃ったってことで、皆さん、飲み物を手に取ってもらって……紙山、お前は一旦座れ。そして服を着ろ。飲み物持った? いい? よし、左府中3年3組全員の再会を祝し……紙山、もう服はいいよ、取り合えず飲み物……それ醤油だろ、徴兵逃れみたいなことすんな。お茶でいいから。はい、もういいね。じゃあ改めて、乾――」
 乾杯ー! と勝手に叫んだのは、紙山だった。それを追って同級生たちが口々に乾杯と言って、グラスを煽る。筧は自分の音頭が埋もれて苦い顔をしていたが、途端、表情が焦り筧の元へと駆け出す。本当に醤油を煽っていた。
「止めろ止めろ! 色々まずいよ!」
 笑ったり、怒ったり、心配したり、同級生の数だけ感情が交差するこの場は、かつてのクラスそのもので。ユッキーがいなくても、このクラスは成り立ってて。
 ユッキーは、虐められていたわけでも、浮いていたわけでも、影が薄かったわけでもない。ただ、僕とユッキーしか知らない日のことを思うと、彼がいなくともクラスが『全員』とされている場が胸を詰まらせる。
 もしかしたら、僕と会わなければ、彼はここにいたのかもしれない。
 もしかしたら、僕が家出をしなれれば、彼は転校しなかったのかもしれない。
 もしかしたら、僕とあの日、路地裏しりとりをしなければ――。
 
 ガッシャン。急いで駆け寄った筧の足がもつれて、紙山の前に置かれた刺し盛に頭から転んだ。そこへユッキーがいないクラスメイトの笑い声が被さる。
 一口舐めたビールが、妙に苦く感じた。

 *

 2年生に上がる、ちょっと前の頃。
 僕の通学路とは逆側――つまり、学校を挟んだ向こう側には国道72号線が走っていて、それを越えると、繫華街と呼ぶには粗末な、『左府ハッピー通り』という寂れた盛り場があった。スナックや雀荘やパチンコ店、それを縫って建つコンビニなんかが並んでいて、夜になるとアルコール臭を帯びた下卑た笑い声と怒鳴り声で活気付く。対して、昼間は水を打ったように静かで、灯っていない電飾や看板のハイカラさがまるで、浮かれたまま死んだピエロのようで怖かった覚えがある。
 『路地裏しりとり』とは、そのなんちゃって繁華街の中でもひと際鬱蒼とした路地裏で、ユッキーが考案した遊びだ。
 ルールはいたって簡単。しりとりの答えを、その路地裏を息を止めて往復する間に考える。帰って来て答えに詰まったらその時点で負けとなるが、子供時分の僕らにとって面白かったのはしりとりじゃなかった。
 いつ見たってひっくり返っている大きな青いゴミ箱、壁を這う水垢で赤くぬらぬらした排水管、煙草の吸殻を口から噴出して道沿いに整列する酒の空き缶。雑巾みたいな上着、片脚だけのスニーカー、使用済みの避妊具、物理的に壊された電子レンジ、クッションと毛虫の間みたいな野良猫、吐瀉物としゃぶつ……生まれて初めて蛆虫を見たのも、この路地裏だ。息を止める、というルールには、スリルを追加する意味もあるが、カビ臭と腐臭とすえた臭いをカクテルした空気、というより、ガスを体内に入れない為の防止策という意味の方が強かった。
 世の中の汚くて粗暴なものを全て集めたような、道という掃き溜めは、中学生の僕らにしてみたら危ない大人の世界に見えたのだ。
度胸試し、と、探検、と、耐久勝負、が、入り混じったゲームには、自分の通学路を逆走してでもやりたくなる中毒性があり、ユッキーと毎日下校しては遊んでいた。
 ユッキーは強かった。住まいが左府ハッピー通り付近のアパートだからか、僕よりもずっと路地裏の雰囲気には慣れていたようだし、息も2分近く止めることができた。肝が据わっていて、路地裏から牛丼屋の空きパックに入ったネズミの死骸を持って帰ってこられた時には、病気云々を心配する前に、腰を抜かした。
 何より、しりとり自体ずる賢かった。大人になった今のボキャブラリーなら返せるが、当時『る』攻めを5、6回されたら勝ち目はなかった。時間をかければもう少し返せただろうけど、呼吸が持たない。結局、2分近くも息を止めながら余裕の表情で路地裏を探索できるユッキーには一度も勝てないまま、彼と突然別れることになってしまったのだ。

 それは、左府ハッピー通りの真骨頂である深夜。日付を跨ぐか跨がないかの頃。
 僕は、つまらないことで母親と喧嘩をして家出した。つまらな過ぎて喧嘩の理由はあまり記憶にないが、確か、寝たふりをして布団の下で懐中電灯の灯りを頼りに漫画、多分ユッキーに借りていた『うしおとちーたー』の何巻かを読んでいたことがバレたのが発端だったと思う。なぜパジャマ姿で家出に至るほど頭に血が上ったのかは、全く覚えていない。
 家を出たのはいいものの、向かうあてはなく、歩けば歩くほど深夜の田畑の黒に夜道が呑まれていくばかりで。孤独感ばかりが際立って、でも、家には戻れないという意地だけは悶々としてて。
僕はどこにも振り切れない中途半端な感情から逃げる為に、明るい方へと一心不乱に走ったのだ。この町で深夜に明るいところと言えば、国道72号線を越えた向こう側。左府ハッピー通りしかなかった。
 初めて、子供ひとりで足を踏み入れた夜の盛り場。あれだけ何度も路地裏しりとりでスリルを味わい尽くしたはずなのに、鬱蒼とした路地裏よりも、自然界ではあり得ない色の光を発する店々から飛び交う、音痴な演歌、喧嘩の怒声、おぼつかない日本語での客寄せの方がずっと怖く感じた。
 切れかかったネオンに羽虫が体当たりしては巡回し、また当たる。
 禁煙を忠告するポスターが貼られた電柱の元では、火種のついたままの煙草が燻る。
 追い出される酔っ払い、路上に放置される酔っ払い、フィリピン人に絡む酔っ払い。
 見慣れた町の、見慣れない光景の中では、寧ろ、あの路地裏だけが安心できる場所のように思えて、僕は足早にそこへ向かったのだ。
 『パブ ぱぱいや』とポップ体で書かれたオレンジ色のひび割れた電光看板。『唄酒場 よし江』と筆文字で書かれた紫色のほつれた暖簾。昼間には気が付かなかった2つの店名の間に、その路地裏はあった。
 何も見えなかった。夜中にも関わらず、そこには豆電球のひとつも灯っていない。店と店の間の狭い空から覗く月明かりだけでは、黒をほんの少し青くする程度にしかならない。何も、ない。何もないのに、闇が、僕を覗き込む。
 ゾッ。
 悪寒が走る。今までドキドキしながら往復していた危なくて汚い大人の世界は、所詮、昼の顔だった。きっと、眠っているライオンの背中を撫でて遊んでいただけだったのだ。今、多分、ライオンは僕に牙を剥いている。何も見えない、が、近付いて来ている気がする。これが路地裏の素顔。
 ゾッ。
 2度目の悪寒に背中を押されて、僕は必死で安心できる材料を探した。その場から逃げらればよかったものの、足は竦んで動かなかった。安心とは、つまり、昼間と同じ、路地裏しりとりをやった時と同じ光景。
 入口の壁の落書き、これはきっと、昼間も見た。
 後ろの電柱にある金融の広告、これもきっと、昼間も見た。
 店の前のパンジーの植木鉢、これもきっと――。

「があぁぁぁぁぁ!!!」
 
 うわあああああ!!!
 声にならない悲鳴が飛び出る。振り向いた瞬間飛び掛かって来た影から、弾けるように踵を返す。しかしその背中を掴まれて「があぁぁぁぁぁぁ!!!」「嫌あぁぁぁぁぁぁぁ!!!」「食うぅぅぅぅぅ!!!」「食わないでえぇぇぇぇぇ!!!」「串刺しにするぅぅぅぅぅ!!!」「刺さないでえぇぇぇぇぇ!!!」振り切ろうと手足を闇雲にばたつかせる。視界は夜の灯りと闇が散り散りにフラッシュし続ける。理屈はないが、殺される、と思った。それしか頭に浮かばなかった。
「があぁぁぁぁぁなつきぃぃぃぃぃ!!!」
 ぎゃあぁぁぁぁぁ……夏木?
 途端、我に返る。動きが止まる。呼びかけた声には聞き馴染みがある。
 掴む手の元にようやく目をやる。僕よりもひと回り縦も横も大きい学ラン姿。糸のように細い目と、それを映す黒縁の眼鏡。いつ見たって付いている寝癖。
 ユッキーだった。唐揚げ棒を持っている。多分セブンのやつ。
「なんで、いるの」と訊いたはずの声は、驚きと寸前までの恐怖でか細く、ユッキーに届く前に消えた。
「あんま面白いからしつこくやっちゃった、ごめんな」
 ユッキーが細い目の尻に皺を寄せて、腹を抱えて大笑いする。僕とは対照的に、左府ハッピー通りの喧騒と暗闇に恐れている様子は全くない。「噛みついてたらお前もっと驚いてたかな」などと、笑い涙を流しながら唐揚げ棒を回している。
 やっと見付けたいつもと同じ光景に、僕は心の底から安堵して、ユッキーに抱きついて号泣してしまったんだ。
 興奮状態にあったからかユッキーにこぼした話の具体的な内容は覚えていないが、どれだけ町が怖かったかとか、路地裏が真っ暗だったとか、家出してきた理由とかが、堰を切ったように涙とともに流れ出た記憶がある。ユッキーは支離滅裂な僕の話に、「そっか」と優しく相槌を打って、僕よりずっと大きな手で背中を撫でてくれた。
 唐揚げをふたつも分けてもらった頃には、鼻声で笑顔を見せられるくらいには落ち着いていた。不思議なもので、恐怖心もどこかへ吹き飛んでいた。あれだけ黒々としていた路地裏も、心なしかゴミ袋のシルエットくらいはが浮かび上がって見えた。ユッキーが、感覚を昼間のものに戻してくれたのだ。
「しりとりしようぜ」
 僕の表情が元に戻ったのを見てか、それとも僕を気遣ってか、ユッキーが唐揚げのなくなった串をそのままポケットに挿して提案した。
 しりとりとは、勿論、路地裏しりとりのこと。
「暗い方がスリル出るじゃん。それにさ、道見えなくてもまっすぐ進んで壁に当たったら、戻ってくればいいし」
 路地裏の奥は、他の店の背中の壁で行き止まりになっている。確かに、何も見えなかろうが、行き詰ったら戻ってくればいい。
 でも、そんなことはどうでもよくて、僕は高揚していて、その誘いに二つ返事で乗った。乗ってしまったんだ。乗らなきゃよかったんだ。
「よっしゃ、じゃあ俺からスタートな。はじめは?」
「しりとりの『り』」
「オーケー、楽勝」
 楽勝も何も一発目なんだから何でも言えるだろ、と僕が思った時には、既にユッキーは暗がりに臆することなく路地裏の奥へとずんずん踏みいっていた。あっという間に、彼の黒い学ランは闇に呑まれて、姿は見えなくなってしまった。僅かに聞こえていた進む足音も、喧騒でかき消される。
 闇がユッキーを丸呑みした。急にまた、恐怖が再来する。
 この場に独りぼっちにしないでほしくて、「おーい!」と路地裏に呼びかける。返答はない。当たり前だ、戻ってくるまでは息をしてはいけないルールなのだから。
 なのに無返答が、ユッキーが闇が丸呑みされてそのまま戻って来ないことを証明しているようで尚恐ろしくなって、何度も呼びかけてしまったんだ。
「ユッキー!」
 声がただ夜に溶ける。
「返事してユッキー!」
 呼びかけるたび声が大きくなる。
「ユッキーってば!」
 瞬間、ざっざっざっざっ。路地裏から音が急速に接近してきて、僕の胸に飛び込んできた。
「リールぅぅぅぅぅ!!!」
「うわああああああ!!!」
 腰を抜かす僕の頭上で、ユッキーがまた大笑いしている。片手にプラスチックの透明な簡易パックを持っていた。ボロボロだ。裏から消しゴム大の影が見える。
「なに、それ」
「『り』だから、リール、だよ」
「そうじゃなくて、そっち」尻もちをついたまま、穴だらけのパックを指差す。「ああ」と言って、しゃがみ込み僕の目の前にパックを差し出す。ドブを煮詰めたような腐臭が漂う。あ、だめだ、これ。
「ねずみ。死んでた」
 ひぇっ。短い悲鳴が漏れる。もう抜かす腰がない。ユッキーはしたり顔で歯を見せる。
「俺、こっちにびっくりしてたのかと思ってた」
「病気になるよ」
「大丈夫だろ、パックに入ってるから」
「いや、もう、パック自体が」と、返しているそばからユッキーの行動に引いてきて、喋るのが面倒臭くなった。
「あげる」
「いらないよ。その辺の土に空けなよ」
 僕の返答にユッキーが吹き出した。僕はきょとんとする。
「お前はそういうとこあるよな」
「そういうとこってなんだよ」
「捨てろ、じゃなくて、土に空けろとか言うところ」
 尚、きょとんとする。ユッキーの言葉の意味がよくわからないまま、差し出された手を掴んで僕は立ち上がった。掴んだあとに、ねずみの死骸の入ったパックを触った手だと気付いたけど、別に良かった。
「褒めてんだぞ」
「どの辺が」
「まあ、いいや。次、お前な。『る』、ね」
 ユッキーが路地裏の入口に背中を押した。よくわからないことへの思考なんて、すぐに目の前の暗闇にかき消されて、手に汗が滲む。闇は止まっているのに、渦を巻いているように感じる。
「一緒に来る?」
「それじゃ勝負になんないじゃんか。ほら、息吸って」
 恐怖したり、安堵したり、泣いたり、冷めたり、高揚したり。忙しい感情の行き来を振り払うように、後ろを振り向いて大きく息を吸い込む。そして、前に向き直ると同時に、路地裏へ飛び込んだ。
 後は野となれ山となれ。さっさと行って、さっさと戻ろう。
 ぴちゃぴちゃだか、べちゃべちゃだか、地面はコンクリートのはずなのに靴底に伝わる妙に湿気を孕む柔らかい感触。
 カラン! 不意に空き缶を蹴ってしまった音に驚いて、呼吸をしそうになる。
 勝手に手が口まで弾けて、塞ぐ。足は止まった。
 猫が物欲しげにどこかで鳴いている。それ以外の音は、何もない。気が付いってしまった。この路地裏が盛り場の音から切り離されていることに。
 独りになった。今までの寂しさを拗らせた孤独なんてものじゃない、本当の独り――。
 僕はその時、確か、泣いたのだ。泣いてばかりで情けないんだけれど、初めて尽くしだったんだから仕方がない。泣くほど怖かったのならリタイアして戻ればよかったのに、中学生の僕はそんな状況でも真面目に息を止めて、『る』から始まる単語を考えていた。はじめなんだからルーマニアでも、ルビーでも、ルールでも何でもよかったのに、怖気づいて脳が麻痺していたんだ。
 それで、考えようとして、見上げたんだったと思う。
 星空があった。その日は快晴だったから、沢山の星が散りばめられていた。この数秒間の中で、一番明るい光景だった。
 その空が、昼間見た空よりもずっと眩しく、広かった。
 店と店の間の、町の僅かな裂け目。広いはずがないのに、その時ばかりは宇宙の全てが見透けるような、大きな大きな星空に感じた。
暗闇から眺める星空は、こんなに眩しく広いのか――。
 恐怖心が緩やかに霧散し、その細やかな心の破片が暗闇に舞って、ほんのちょっとだけ路地裏を明るくした。魔法でも何でもない。ただ目が慣れただけだ。でも、星空から目を下ろした時に映った路地裏のシルエットが、昼間と同じ形をしていて――ユッキーと遊んだその形をしていて、晴れやかになった心が魔法のように見せたのだ。
 僕は前に進んだ。僕はその日の数学の授業をふと思い出して『ルート』と答えようと決めた。僕はあっという間に路地裏の果ての壁にタッチした。
 時々なら、夜の路地裏しりとりも楽しいかもな。こんなに遅い時間じゃなくても、19時とか20時なら十分暗いだろうし、親にもギリギリ怒られないだろう。戻ったらユッキーに訊いてみよう。
 一気にゆとりの生まれた僕はそんなことを思いつつも、そろそろ苦しくなってきた息の方を優先して、戻り道に振り返った。
 大男のシルエット。
 ゆとりは、突然、吹き飛んだ。
「坊主、深夜に何してんだ、こんなとこで」
 野太く擦れた声が、重くのしかかる。
 影で顔は見えないが、その僕の2回りほどもありそうな背丈と肩幅は、明らかに知っている男性のものではなかった。それどころか、当時の僕にとっての大人の世界の住人に見えた。つまり、カタギじゃない人間。
「家どこだ、母ちゃんは知ってんのか」
 怒っているのか、心配しているのか、どっちとも取れない声が発せられる度、鉛のように僕の体が重くなっていく。熱が全て冷えていく。
「おい」
 大男はしゃがんで僕に目を合わせる。間近だと、僕を睨んでいるのがわかった。しかし、返答するわけにはいかなかった。
「おい、口利けねえのか」
 震えが止まらなくなる。苦しい。
 答えなかったのは、ヤクザ者に家を教えたら何をされるかわからない、なんて利口な理由じゃかった。路地裏しりとり中だったからだ。意地でも息を止めて戻らないといけない。
「中坊か、学校どこだ」
 避けて路地裏から出ようにも、大男の体で退路は塞がっている。顔中、頭の中がパンパンに張っている感覚はあるのに、体の力は抜けていく。
「もしかしてあれか、聞こえねえのか」
 一瞬だけ楽になって、意識が、遠く、なって――。

 起きて最初に目に入ったのは、近隣の店に勤めるフィリピン人の不安げな顔だった。
 路地裏の入口の壁にもたれていた。息を止め過ぎて、失神したみたいだった。
 ユッキーの姿はどこにもなかった。夢を見ていたのかと思ったけれど、パンジーの植木鉢にねずみの死骸の入ったパックが空けられていて、現実だったとわかった。
 僕の周りには小さな人だかりができていて、よかった、だの、大丈夫? だの、送ろうか、だの、口々に心配の声を投げかけられたが、ぼんやりした頭で「平気です、すみません」とだけ返して家路についた。
 帰宅する直前に道端で僕を探しに走り回っていた母親と遭遇し、平手打ちを食らった後、熱く抱擁された。
 そんなあれやこれやが起きる最中、ずっと頭をもたげていた言葉は「ユッキーは先に帰ったのかな」。その答えは、次の週に判明する。
 次の日からユッキーは学校を休むようになり、次の週、春休みに入る直前にクラスに転校が知らされた。先生はお父さんのお仕事の都合上、だと話していたが、同級生の間にたちまち広まった噂の内容は違った。
 ユッキーの父は借金苦だった。
 ユッキーの父は闇金にも手をつけていた。
 ユッキーの父は借金取りから逃げていた。
 ユッキーの父は夜逃げした。
 最後の路地裏しりとりをしたあの日のことを思い出したら、どこから流布したかも知れない噂の方が余ほど信憑性はあった。
 だって、僕が路地裏で会ったヤクザ者の大男が、闇金の借金取りだとすれば全ての辻褄が合うんだから。
借金取りはユッキーの父を探しにこの町に来て、父よりも先に息子であるユッキーを見付ける。そして、ユッキーを攫ったのか脅したのか誘惑したのか、兎も角父の元へ案内させた。住処を知られた父はユッキーを連れて、町から逃げ出したのだ。もしくは、相手が闇金であるなら、最悪の場合、ふたりは――。
 ユッキーの電話は繋がらなかった。家に行っても案の定もぬけの空だった。借りた漫画は今も僕が持っている。
 もしあの時、僕が路地裏しりとりの誘いを断っていれば、どうなっていただろうか。違う、僕が情けなく泣き喚いたりしなければ、ユッキーが気を遣って僕に路地裏しりとりを提案することもなかったんじゃないか。
 僕は何であの時、ユッキーの名前を大声で呼んでしまったんだろう。その声に借金取りが気付いたからユッキーは見付かってしまったんじゃないか。
僕が、僕の弱さがユッキーを町から追い出したんじゃないか。

 あの日から、満足に呼吸ができたことはない。
 路地裏しりとりで息を止めたまま、17年経った。
 筧からユッキーが生きていることを聞いて、安心した。心の底から、安心したんだ。
 なのに。

 まだ路地裏から抜け出せていない。

 同窓会が終わる予定時刻の約20分前に、筧に「急に営業先の客に呼び出された」と嘘を吐き、会場を抜け出した。同窓会は左府中学校にほど近い小さな居酒屋を貸し切って行われている。大人になった同級生たちは2次会の店探しに、十中八九、中学校の前の国道72号線を越えた目前にある左府ハッピー通りに繰り出すだろう。僕が会場を早く抜けた理由は、そこで同級生たちと遭遇しない為だ。
 路地裏には、ひとりで向かいたかったのだ。あの夜と同じように。
 自然界ではあり得ない色の光を発する店々――かつての看板の色よりも褪せて感じるのは、僕の目が慣れたからだろうか。
 外まで聞こえる音痴な演歌――大きく波打っている歌声が今ならこぶしだとわかる。
 酔っ払い同士の喧嘩の怒声――酔って声のボリューム調整ができなくなったおじさん同士のじゃれ合いだった。
 おぼつかない日本語での客寄せ――規制は厳しくなったはずなのに17年前よりも数が増えている。
 足を踏み入れてみたら、記憶よりもずっと小さな盛り場だった。中学校の頃から20㎝も身長が伸びているのだから、当たり前の感覚だ。でもそれ以上に、当時の恐怖心がまるでないことが、盛り場を小さく見せている気がする。
 ユッキーを失ってしまったあの弱さはもう、ない。そう自分に言い聞かせたくて、路地裏に向かったのだ。そんなことしても、ユッキーが戻ってくるわけでも、許されるわけでもないのに。
 結局、僕の悪い部分は家出した時のままだ。どこにも振り切れない中途半端な感情から逃げる為に、路地裏に向かっている。
 すぐに着いたのは、僕の歩幅が広くなったからか。路地裏には、未だに灯りはなかったが、記憶よりも遥かに明るく感じた。ゴミが散乱してる。その様が入り口からわかる。むせ返るほどの臭気に感じられていた生ゴミ臭やドブ臭はそのままだが、もう我慢できた。
 やっぱり僕は強くなっていた。今なら怯えずに路地裏を往復できる。この心が当時にあれば、ユッキーはきっと――。

「があぁぁぁぁぁ!!!」
 
 うわああああああ!!!
 突然耳元に飛び込んできた怒声に飛び上がり、その拍子に後方にこける。
 尻もちをつく、弱いままだった僕を笑って見下ろすのは、糸のように細い目と、それを映す黒縁の眼鏡。僕よりもひと回り縦も横も大きい男。寝癖はないけど、学ランじゃないけど、僕にはわかった。
 今も昔も、僕よりもずっと強い人。
 ユッキー。
「なんで、いるの」と訊いた声はか細かったけど、ようやくユッキーに届いた。
「なんでって、今日同窓会なんだろ」笑い疲れた声で返す。
「だって、筧が来れないって」
「来れないんじゃなくて、行かなかったんだよ」
 ユッキーは僕に手を差し伸べて、清々しい顔で言った。
「俺、ハブられてたから。今更会っても語る思い出ねえし」
 ユッキーがハブられてた? そんなわけない、ユッキーが同級生だったのはたった1年間だけど、クラスに馴染んでいたはずだ。僕は目の前にユッキーがいることへの整理のつかないまま、「ハブられてたわけないじゃん」と一番手前の言葉を引っ張り出した。
「そんな風に思ってたのはお前だけだよ。ほら」差し出した手を更に僕に近付ける。
「理由がないよ。だったら筧だって誘わないよ」手を掴まずに返す。
「筧は面白がってただけだろ。暴力団の息子が今どんな感じになってるかってさ」
 え。声にならずに息が漏れる。
 延々と心の中で渦を巻いていたユッキーの噂と、あの夜にユッキーがいなくなったこととを繋いでいた鎖が、爆ぜる。
 じゃあ、もしかして、あのヤクザ者は――。
 目の前のユッキーがお道化て突っ込む。
「もういいから、早く立てよ」
 僕が手を差し出すと、力強く掴んで引っ張り上げた。やっぱり僕よりも一回り大きい手の平。あの夜、号泣する僕の背中を撫でてくれた手の平。
「お前知らなかったの?」とあっけらかんと訊くユッキーに口ごもってしまって、何度か聞き返された。
「借金取りに、追われてるって、聞いてて、親父さんが」
 僕の言葉をようやく聞き取ったユッキーは、細い目を丸くして止まる。そして、すぐにまた声を上げて笑った。
「なんちゅう都市伝説だよ、うちは追う側。まあ親父はそういうの担当じゃなかったけど。お前確か親父に一回会ったよな」
「あの、路地裏の大きい人?」
「そうそう。あの日さ、親父とふたりで町を出る途中だったんだ。詳しくは知らねえけど、親父がシマで粗相したとかで。早い話が夜逃げだな。そしたら遠くに、ビクビクしながらうろちょろしてる夏木を見付けた。すぐに路地裏に行くつもりだってわかったよ。だって、お前が盛り場で馴染みがある場所って言ったらここしかないんだから。
 んで俺が、最後に寄りたいところがあるって親父に駄々こねて、あの夜、ここに来た」
 ユッキーは僕の目を見て続けた。滅多にしなかった柔らかい笑顔が、僕を慰めてくれた時と同じだった。
「来てよかったって思ったよ。お前の家出してきた理由が嬉しかった」
 その言葉は心を通過して、意味は残さずに、苦しさだけを置いてけぼりにする。
 僕は何て勘違いをしてしまっていたんだ。
「ごめん」
 今更、どうにもならないけれど、ごめん。
「なんだよ、頭上げろよ。気味悪いよ」ユッキーが慌てて僕の下げた肩を直そうとする。
「いいんだ、謝らせて、ごめん」
「何が。ちょっと怖えよ。あれか、暴力団の息子とは会えないってか」
 ふざけて返すユッキーの言葉に、「そんなことない!」と考える前に口から出た。
 呆気に取られたユッキーが「そ、そうか」と珍しく戸惑う。
 夜風が二人の僅かな隙間を抜ける。生温かい、町中のアルコールを含んだ風はそのまま、路地裏へと吸い込まれていった。どこかで猫が物欲しげな声をひとつ上げた。
 風は、かつて大人のものだと思っていた匂いを、僕に運んだ。
 それを吸い込む。ゆっくり吐き出す。やっと呼吸ができた。
「ルート72ななじゅうに
「え?」ユッキーが聞き返す。
「ルート72。しりとりの答えだよ。国道72号線」
 今日なら勝てる気がした。一度も路地裏しりとりで勝てなかったユッキーに。いや、まだ勝負は続いている。
 ユッキーは一瞬考えて、すぐに察する。
「17年間も息してたんだからお前の負けだろ」
「息はできなかったよ」
「ホント?」
「ホント」
「じゃあ、信じる」と、胸を張り、路地裏の入口に踏み込んで腕を組む。
 子供の頃見たときよりも明るい闇が、僕とユッキーを睨む。ユッキーはそれを仁王立ちでじっと睨み返して動かない。なんだか、僕との勝負ではなくて、路地裏との勝負みたい。
 その様子がおかしくて、真剣勝負に口を挟みたくなった。
「怖いの? 一緒に行こうか」
「怖かねえよ、感慨に浸ってたの。一緒に行ったら勝負になんねえだろ」
「そういや結局、なんで来たの? 同窓会行く気なかったんでしょ」
「野暮なこと聞くなよ。お前の家出した理由と大体一緒だよ」
「なんだっけ」
 僕の言葉の後、ほんの1秒だけ、空気が止まった。
 ユッキーが僕を振り返る。眼鏡を上げ直した顔は、寂し気だった。それは酷く悲しい想いを堪えるような、初めて見るユッキーの表情。自分が何か気に障るようなことを言ったかと、文脈を探るが、見当たらない。
 ユッキーは俯いて、「そっか」と寂し気に笑い、息を吸い込んで、路地裏に入っていった。
 かつて闇に呑まれていったユッキーの背中は、今ははっきりとわかる。体が一段と大きくなって、狭そうだ。軽々と足元のゴミを避けて、時に体をひねらせながら、あっという間に突き当りまで辿り着く。でも、ユッキーは振り返らずに上を見た。
 僕も合わせて上を見る。星空だ。今日も、あの日も快晴だった。そういえば、これを見て、僕はあの日気付いたんだ。暗闇から見上げる星が一番広く眩しいことに。
 ユッキーはどう感じたのだろうか。路地裏から見上げる星空は、ユッキーにとって広く眩しかったのだろうか。
「ニヒル」
 わっ、とまた飛び上がる。飛び上がってばかりだ。空を見上げていて、ユッキーが戻ってきたことに気が付かなかった。
「ニヒル、だから、次は『る』な」
「『る』攻めのユッキー復活だね」懐かしもうと声をかけたが、ユッキーはまた空を眺めている。ユッキーの目が光って見えたのは、星を反射していたからなのかもしれない。
「さっきも空見てたね」
 訊きながら僕を同じ空を見る。
「うん」
「どう見えた?」
「意外と狭かったんだな、って」
「え」自然と顔がユッキーの方に向いた。
 僕とは真逆の感想だったのが、不思議で。僕は同じ空を見てると思っていたから。
「俺の『うしおとちーたー』、まだ持ってる?」ユッキーが向き直って訊く。
「持ってるよ。今日返す――」
「あげるよ。取っといてくれてありがとうな」
 ユッキーは柔和に微笑みかける。何でか、僕にはその優しい表情がいつものユッキーではない気がして、返す言葉に詰まってしまった。
「ほら、『る』だぞ。お前の番だ」
 息を止める前に、ユッキーに背中を押され路地裏に入り込む。急いで息を吸い込んだから、路地裏の臭気が集まって、気持ち悪くなる。早く往復して、この臭いを体内から逃がしたい。
 何も恐れのない路地裏は、ユッキーと同じですいすいと進めた。スリルはなくなったが、子供の頃脅威だったボスを片手でのしているような爽快感があった。
 懐かしむ間もなく、突き当りに到着する直前、転がる牛丼屋の空きパックを避けようとして、足が止まる。
 パックの中で、ねずみが死んでいた。
 ユッキーに何度もねずみの死骸を差し出されて腰を抜かした思い出が、フラッシュバックする。今の僕なら、パックを素手で持てる。今までの仕返しだ、ユッキーにひと泡吹かせてやろう。
 子供の悪巧みに口角が自然と上がる。僕はパックの淵を掴み、死骸をこぼれ落としそうになりながらも、突き当りの壁をタッチして出口へと駆け抜けた。
 答えは、『る』から始まれば何でもいい。ユッキーを序盤の回答で詰まらせることもない。なるべく長く続かせたい。ユッキーとの路地裏しりとりを、息を止めて、呼吸をしながら、朝までやっていたい。
「ルーマニア!」
 僕は回答とともに、片手にねずみの死骸があることも忘れて、出口のユッキーに飛び込んだ――はずだった。
 悲鳴を上げてよろけるその男性の声は、あきらかにユッキーよりも高かった。
「夏木、ちょっと、うわ、何持ってんだ、捨てろよ!」
 筧だ。あれ、筧だ。何で。
「ユッキーは」
「は?」
「だからユッキーだよ、山城幸彦」
 肩を掴んで必死の形相で訊く僕を見るや否や、「はいはい」と介抱する人間の表情で制止する。
「仕事だとか嘘ついて、どうせスナックかなんかでひとりで飲んでたんだろ。つれないよなあ。随分酔ってるみたいだけど、もう逃がさんからな。二次会に連行する」
 筧は回り込んで、僕の肩に腕を回した。視界に入る限りの光景を見渡すが、いたのはユッキーではなく、フィリピン人のキャッチに絡む泥酔状態の紙山だった。シャツを脱いで、蓄えに蓄えられた腹毛の上の両乳首を名刺と名札で隠して「鈴木雅之すずきまさゆき!」と喚いている。
「お前の酔い方だと、あれとどっこいだな」筧が指を差して笑う。
 路地裏を振り返る。夢、だったのかな。ユッキーへの罪悪感が見せた、夢、だったのかな。
でも、ねずみの死骸はちゃんとここにある。
 動かない僕の肩を揺らして、筧が催促する。
「ほら、紙山ひっぺがして、店行こ」
「ユッキーは」
「いつまで言ってんの、今日は来ないって。そんで、それ捨てろよ、臭えなあ」
 筧がしかめっ面でねずみの死骸を顎で示す。
「ああ、ごめん」と、路地裏脇の店の前にある植木鉢にパックを空ける。
 
 大人になった今見たら、空は広かったんだろうか、狭かったんだろうか。
 路地裏から星空を眺め忘れていたことを、筧と店に向かいながら、ぼんやり思い出した。

「アンタまた漫画本読んで、何時だと思ってるの! 寝坊しても母さん起こさないからね」
 むりやり布団を剝がされて、『うしおとちーたー』の上でうずくまる僕のだらしない姿があらわになる。懐中電灯の灯りがお母さんの顔の下に当たって、影を作る。鬼ばばだ。
「これ読んだらもう寝るから」と口答えするけど、受け入れられた試しはない。
「毎回寝ないだろ! もう没収、それ」
 僕は瞬時に腹の下に漫画を隠すけど、母さんは意図も簡単に手を差し込んできた。
 もう結構な量の漫画を没収されているけど、これだけは手放すわけにはいかない。
「だめ! だめ!」体中で抵抗する。
「だめじゃないでしょ、母さんとの約束でしょ! 自業自得!」
「違うの、これ、友達から借りたやつだから!」
 母さんの手が止まる。表情が曇る。
「誰から」
「ユッキーから」
 それを聞いて、母さんは手をゆっくり引く。鬼ばばの顔はみるみる悲し気になって、布団の前に正座した。母さんが本気で伝えたいことがある時の体勢だ。
「他のお友達とは仲良くないの?」声色で心配しているのがわかる。
「そんなことないよ。筧とも紙山とも遊ぶよ」
「じゃあ何で山城くんと縁を切らないの?」
 すっ、と、気持ちが頭に流れ込む。いろいろな、気持ちだ。
僕はずっと、母さんがなんでユッキーと縁を切れなんて言うのか、わからない。ユッキーとの話をする度にそんなことを言われて、もう母さんの前でユッキーの話をするのをやめていた。うんざりだ。
 僕は身を起こして、母さんの顔をちゃんと見る。
「どうして母さんはユッキーが嫌いなの?」
「質問を質問で返さないで。もう付き合うなって言ってるでしょう」
「なんで母さんが決めるんだ。どうしてそんなに付き合ってほしくないんだよ」
 僕が立ち上がると、母さんも立ち上がった。でも、母さんは悲しい顔で言いよどむばかりで、答えない。ユッキーのことが嫌いなだけじゃないか。
「なんでユッキーが嫌いなんだよ、いつも一緒に遊んでくれるよ、漫画も貸してくれたよ。ユッキーはこんなにいい奴なのに、なんでわからないんだよ!」
 母さんだって、わかってるはずだ。僕が一番多く遊んでいる友達がユッキーだってことに。そりゃ時々喧嘩だってするし、口を利かない日だってある。でも、ユッキーの悪口を母さんに言ったことなんて一度もない。それなのに、何で。
 母さんは目を逸らして、髪を一度悩まし気にかき上げる。そして、僕の手を、両手で包んで、言ったんだ。
「山城くんに暴力振られてない?」
 パンッ。
 僕の中にある何かが弾けた。
 ああ、僕は母さんとは一緒にいられない。親友を引き離そうとする、僕の心を剥がそうとする大人とは、一緒にいたくない。
 気が付いた時には、母さんに布団を投げ付けていた。
「暴力なんか! 振るやつじゃない!」
 机の上の筆箱も、床に転がるゲーム機も、教科書も、ノートも、手につく物を全部投げる。
「何でそんなこと言えるんだ! 母さんが嫌いなのは関係ないじゃないか!」
 そして『うしおとちーたー』を手に――これだけは投げられない。
 握る手の力はどこにも逃がすことが出来なくて、僕は玄関に走ったんだ。
 適当な靴を履いて、パジャマのまま、ドアを開ける。夜は暗い。でも家の中はもっと暗い。
 僕の中で弾けた何かは「あああああ!」と奇声になって口から飛び出て、涙と一緒に、最後に僕の感情のすべてを表す言葉になった。
 
「僕は母さんなんかよりユッキーの方が好きだ!」

 走った。前も見ずに。道がある方に。
 ユッキーを嫌う世界から抜け出すために。全速力で。
「あああああ!」
 叫びは、真っ暗闇の田畑に、こだますることもなく、沈んだ。
 それでも。
 ああああああああ!!!
 爆発したネガティブ感情の全部は。
 ああああああああああ!!!
 孤独な叫びにしか。
 ああああああああああああ!!!
 ならない。

 僕はユッキーのいない夜に呑まれていった。

 



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【罪状】威力業務妨害罪

紙山が店の醤油差しに口を付けて醤油を煽ったため。


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