障害者と阪神・淡路大震災、30年目
今月もわたしのがん闘病について書こうと思っていましたが、1月17日は阪神・淡路大震災が起きて30年目の節目なのだと気が付きました。障害者にとって震災とはどのような出来事なのか。このことを書くことは、がんの闘病を置いても書く意味のある気がしてきました。今月はわたしにとっての阪神・淡路大震災と、障害者にとっての震災の意味を書いてみます。
さて、30年前の1月17日、実はわたしは、妻とふたりでコンゴ共和国のウエッソという町にいました。「ンドキの森」の調査を終え、町でひと休みしていたのです。この町には飛行場があり、首都ブラザビルまで飛行機が飛んでいました。「ンドキの森」とは別れ、人混みの生活が始まろうとしていました。
飛行機は週に一便の定期航路でした。この定期便を待って降りる乗客を見送っていると、わたし達のことを日本から来た研究者と知っていた白人の若い女性が我われの姿を目に留め、歩いて来て言ったのです。
「驚かないでください。あなたのお国で大きな地震がありました。大きな都市で起こった地震です。」
都市が神戸とその周辺だとは知らないようでした。それでも女性は真剣な眼差しで地震が起こったことを知らせてくれました。わたしはそれが関西の地震ではありえないと誤解して、地震は日本列島ではどちらかと言うと北か南でよく起こること、我われが帰るのは地震の頻発地ではないと伝え、そもそも地震が起こるのは日本ではそれほど珍しいことではないことを説明して、その場は納得してもらいました。ところがそれが大きな誤解だったのです。それはやがて明らかになりました。
ブラザビルでは、わたし達が帰るべき関西で地震が起こったことを知りました。しかし、どれほど大きな地震であったのかについては曖昧な情報しかありませんでした。わたしは義務として訪れなければならないコンゴ共和国のお役所をまわり、ヨーロッパで用事のあったジュネーブに寄って、やがて日本に向かう飛行機の乗客になりました。その時の機内の新聞から、神戸とその周辺では何が起こっているのか、詳しい情報を得ることができたのです。新聞では高速道路の橋脚が崩れ、大きなビルが倒れてこなごなに砕けています。上空から撮った写真では通りのあちこちが燃えていました。それは思いもよらない惨状でした。わたしにじわじわと恐怖が広がった瞬間です。ウエッソであった女性は、起こったことを正しく伝えてくれていたのです。
家に帰り着くと鍵を開けるのももどかしく、急いで室内を見渡しました。わたしも妻も登山靴を履いていたので、そのまま上がるように言い、割れたガラスを踏み締めながら室内を進むと、わたしの大きな本箱が倒れているのを発見しました。タンスも倒れています。そこはいつもわたし達が寝ていたスペースです。本箱やタンスに押し潰されたわたし達を想像しました。ただその時、恐怖は感じませんでした。なぜ恐怖を感じなかったのか不思議です。あまりに直接的な危機を見せつけられると、人間は恐怖は感じなくなるのでしょうか。
幸い鉄筋の建物にひびは入っていません。わたしの住んでいたあたりの揺れは、それほどでもなかったのかもしれません。室内を片付ければそのまま生活できそうです。わたし達は割れた食器やガラス片を片付け、掃除をして何とかスペースを確保しました。
二間隣のお爺さんが亡くなっていました。以前から病気がちで、お婆さんの世話を受けて、寝て過ごしていたのです。その他のご近所はお元気なようです。生き延びていて欲しい。祈るような気持ちでした。
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これはわたし達夫婦の帰国直後の体験です。この時まだわたしは障害者ではありませんでした。また障害者になってから大きな災害に出逢ったことはありません。しかし、日本列島では、何年か後に確実に災害が起こります。南海トラフ地震は本気で心配しています。そして障害者になった自分の困難が想像できるようになりました。そのさまをシミュレーションしておくことは、意味あることに違いありません。
ある新聞に「障害者にはさまざまな困難がある」という一文が載っていました。「障害者にはさまざまな困難がある」。それはまったくの事実です。そのために、例えば行政で働く人たちが目を通しておくべきマニュアルにも「障害者にはこれこれの困難がある」とひと言で書くことはできないのです。この一文を読んで、わたしは大きな不安に駆られました。それは「障害者にはさまざまな困難がある」という文章をどんな困難があるのだろうと想像力を働かせては読まないで、「障害者にはさまざまな困難がある」という文字面だけを認識し、それで終わりにするのではないか。そういう漠然とした不安です。これには理由があります。それは2024年1月の能登半島地震の後、人びとは避難所の床の上に新聞紙を引いて雑魚寝をしていました。そういう姿をテレビで見たのです。それも1月にです。それでそう感じたのです。これは杞憂ではありません。今の日本の避難所の現実です。
どんなシミュレーションをしたのか、わたしの障害に即して書いてみます。
▶わたしは右半身がマヒしていますので、瓦礫の中を自由に歩き回ることはできません。杖があれば瓦礫の中でも少しは動けるでしょうが、とても「自由に」とはいきません。
▶人を背負うこともできません。小さな子どもなら背負えますが、わたしと同程度の体重がある人を背負えば、ものすごく不安定になります。
▶マヒのために筋肉が衰えていますので、自力で瓦礫を除けるという訳にはいきません。地震の時、何かが被さってきたら、きっとそのままになるでしょう。
▶普段であれば自分の名前や生年月日は初対面の人にも分かるよう正確に発音できますが、慌ててしまうと失語が出て言えなくなりそうです。そのために、まず認知症を疑われそうです。
▶高次脳機能障害のため極端に疲れやすいのです(医学用語では「易疲労性」とか「易疲労感」と言います)。そのために4時間ほど活動したら、一定時間、休まないと保ちません。
▶毎日30分ほど音読ができないと、喉や口の動きが滑らかでなくなります。すると失語が出てコミュニケーションが取れなくなります。そればかりではなく、物の飲み込みも悪くなります。一番怖いのは誤嚥性肺炎です。
▶手でものを書くのが苦手です。これを強要されると、とんでもなく時間が掛かってしまいます。
▶床に寝た姿勢から起き上がるのは困難です。普段はベットで寝ているので雑作もないのですが、床に寝た姿勢からだと、壁など何か支えになるものに掴まらないと起き上がれません。
▶寒い中で外にあるトイレに立つと、マヒした側に筋拘縮(きん・こうしゅく)が起きてしまい、まともに歩けません。
▶突然、後ろから呼び掛けられても筋拘縮(きん・こうしゅく)が起こります。そのために、しばらく苦しみます。まわりの人は何を苦しんでいるのか理解できないと思います。
よく考えると、困難はまだまだあると思います。それに脳血管障害や失語症と言っても、わたしの症状は誰か別の人の症状とは異なります。一括り(ひとくくり)にはできないのです。それにわたしは、今はがん患者です。肺炎にもなりやすいのです(痰が絡み、咳が出ます)。ですから、そもそも集団でいることが当たり前の避難所のようなところには、あまり居たくありません。理由が分からないままに、いつも咳が出ていると言って嫌う人もいるでしょう。
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失語症者にときどきある聴覚失認――聴力はあるのに、脳が刺激を受け付けない状態――はあまり認識されていません。わたしも聴覚失認の経験はありますが、日ごろから出ているわけではありません。極端に疲れたときに、たまたま経験したまでです。ただ、始終、聴覚失認を起こしているのなら、その症状を医師が書いた書類があると良いと思います。聴覚失認はなかなか理解されず、聴覚障害と混同してしまいがちです。しかも失語症も出ている例が多いのです。書類を示したからといって、それを理解してくれるとは限りません。しかし、ないよりはマシな気がします。
わたしがインタビューをしたある聴覚失認者は、避難の時、お薬手帳は必ず持つと教えてくれました。銀行の通帳はなくても、また発行してもらえますが、お薬手帳は、今必要な薬を書いたものだからだそうです。
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日本は国際連合の「障害者の権利に関する条約」を批准しています。そしてこの条約に準拠するように国内法やいろいろな制度を整える義務があります。しかし、法体系というものは一足飛びに整えられるものではありません。法律というものは長い歴史の果てに現在の姿になったものですし、条約に対する誤解も、さまざまあるに違いありません。それがどういうものか、日本政府が国連の「障害者の権利に関する委員会」に向けて報告したのが日本政府報告です。今は「第1回日本政府報告」が出て、それに対する委員会の総括所見が出ています。また日本障害フォーラムという、自由に意見が言える民間の団体からパラレル・レポートが出ています。
この日本政府報告や委員会の総括所見は、時間を掛けてじっくり話し合いましょうというものです。日本政府が出しているのだから、あるいは国連の「障害者の権利に関する委員会」が出したものだからといって、けっして命令ではありません。ただ日本政府も国連の委員会も真剣に出しているのだから、お互いに真剣に対応する義務はあります。
わたしはよい機会だと思って、何人かの失語症者にインタビューした記録と上記の公式文書を見比べてみて、失語症者にとって何が満たされ、何が忘れられているのかをまとめようとしています。このまとめでは情報へのアクセスが重要な課題になりそうです。
次回はわたしのがん闘病のその後を書こうと思います。
肺腺がんについてのありがたいニュース
https://note.com/gorilla0907/n/n3eaf38ffdd33
わたしには免疫療法が効きそうだ
https://note.com/gorilla0907/n/nda6a2554f98f
抗がん剤治療への疑問、あれやこれや
https://note.com/gorilla0907/n/n1c3805c97a7c
わたしの抗がん剤治療は皿田キノコちゃんの三輪車を漕ぐ音から始まった
https://note.com/gorilla0907/n/nfa74971c31d6
心情的には「死ぬ」と「生きる」の狭間をうろうろ
https://note.com/gorilla0907/n/nefaffe40654f
『がんばれカミナリ竜』
https://note.com/gorilla0907/n/n782c65ab641d