彷徨う夜に

馨と仁志は、いつも曖昧なまま、夜のどこかで落ち合った。バーのカウンター、路地裏の喫煙所、人気のないビリヤード場。会えば酒を飲み、手を伸ばせばすぐ触れた。けれど、お互いに「好き」なんて言葉を口にすることはなかった。

ホテルの部屋のベッドの上、馨はタバコをくわえながら、天井を見つめる。

「ねぇ、あたしたちってさ、何?」

馨は時々、そんなことを言う。

「何って、別に」

「そう。別に、ね」

仁志は煙を吐いた。枕元の灰皿には、吸い殻がいくつも転がっていた。

「別に……でも、消えたりしねぇだろ?」

「さぁね」

馨は意味ありげに笑うと、毛布にくるまって背を向けた。

こういう会話の繰り返しだった。終わりなんて来ないと思ってた。ただ、ふと気が向いたときに連絡すれば、またどこかで会えるんだと、そんな風に思ってた。

──だから、駅前のホテルから飛び降りたと聞いたときも、実感なんて湧かなかった。

馨が最後に仁志に送ったメッセージは「次、いつ会える?」だった。

次は、なかった。

警察に事情を聞かれたとき、仁志はただ黙って首を振った。何も知らねぇよ、って。馨の親は、娘がどんな風に生きていたのか、どんな夜を過ごしていたのか、何も知らなかったらしい。

ホテルの非常階段の手すりには、馨の煙草の吸い殻がひとつ落ちていたそうだ。

仁志はその夜、ひとりでバッティングセンターへ向かった。カーン、カーンと、誰もいない時間のバッティングゲージに響く音を聞きながら、馨の名前を何度も心の中で呼んだ。ほとんど呼ばなかった、その名前を。

最後に会ったのは、渋谷の道玄坂にある安いホテルだった。

仁志の手には缶ビール。馨は部屋の隅でアイロンをかけるように指でシャツの皺を伸ばしていた。服飾の専門学校に通っていたせいか、布の折り目が乱れているのが気になるらしい。

「なぁ」

「ん?」

「何がそんなに気になるんだよ」

「このシャツ、ちょっと伸びちゃってる。アイロンかけさせて」

仁志は笑って、ビールを一口飲んだ。

「俺のシャツなんか、どうでもいいじゃん」

「でも、アンタは着るんでしょう?」

馨は丁寧にシャツを畳み終わって立ち上がると、「ねぇ、仁志」と神妙な面持ちで呟いた。

「あたしさ、ちゃんとした服のデザイナーにはなれないと思うんだよね」

「なんで?」

「なんか、ぜんぶ中途半端だから」

馨は、煙草の箱を弄びながら、どこか遠くを見ていた。ベッドのスプリングが軋む。

外では雨が降っていて、カーテンの隙間から街灯のオレンジ色の光が差し込んでいた。

「学校も、課題も、恋愛も。みんな楽しそうにやってるのに、あたしだけ、うまく溶け込めてない気がする」

「溶け込まなくていいんじゃねぇの?」

馨は小さく笑った。

「……それ、仁志が言うと無責任に聞こえる」

「まぁな」

ビールの缶が空になる音が響いた。馨は毛布にくるまり、天井を見上げたまま、静かに言った。

「仁志はさ、あたしのこと、好き?」

「好きじゃなかったら、こうして会わねぇよ」

「そういうことじゃなくて……」

馨は口をつぐんだ。

夜が静かに溶けていく。部屋の明かりは薄暗く、まるで現実から逃げるみたいだった。

仁志は黙ってタバコをくわえたまま、緩やかな煙に巻かれていた。馨はそのついたり消えたりする光をじっと見つめる。

「ちゃんと消してからこっち来てよ」

「わかってるさ」

タバコを灰皿に押しつける音がして、次の瞬間には馨の細い手首がベッドに沈んでいた。仁志の指が彼女の顎を持ち上げる。

「息してる?」

「……してる」

「してるなら、いいか」

仁志は静かに馨の唇を塞いだ。
肌と肌が触れ合う感触。馨は仁志の背中に手をまわした。冷たい指先が、背中の熱を奪う。

「寒い?」

「……ちょっと」

「すぐ温かくなるよ」

仁志の手が馨の腰を撫でる。馨は目を閉じて、仁志の匂いを深く吸い込んだ。アメスピとハイネケンの匂い、それから夜の匂い。

「仁志」

「どうした?」

「ちゃんと覚えててね」

「何を?」

「今夜のこと」

「……覚えてるさ」

馨は微笑んで、仁志の首筋に顔を埋めた。彼の体温が奥深くに染み込んでいくのを感じていた。

その夜、馨は何度も仁志の肌に触れた。指先で、唇で、名前を呼びながら。でも、仁志はそれをただ受け入れるだけで、何も言わなかった。

朝方、馨は先に部屋を出た。

「また連絡する」とだけ言って。

それが最後だった。

駅前のホテルの屋上から、馨は空を見上げていたのだろうか。

シャツの折り目がいつかの夜のまま綺麗に整えられているのを見て、仁志は煙草に火をつけた。

仁志は思う。互いに貪るように愛を埋めて、だからもうあの時、じぶんの半分はしんだ、と。

数年後に深久茂もいなくなって、あの夜ごと嘘だったみたいに、はじめから何もなかったみたいに。あの日から眠れなくなった。

でも、それほど馨を心底愛していたかと問われれば、なぜだろう、素直には頷けない。何かを伝えたかった気がするし、何も伝わらなかった気もする。真空パック嬢に話しかけるような、そんな感じだった。確かそういう歌があった。思い違いかもしれないが。

忘れられない女なんてものは、厄介だ。一瞬でハジけ飛んで、火傷の痕だけ残して、得意げに空を浮遊してやがる。そう思わなければ、やっていられなかった。あまりのじぶんの不甲斐なさに吐きそうになったから。

そして、吐きそうになって結局は吐けない現実に嫌気がさして眠った。「眠れないくせに」って馨の細い声を、頭の中で鳴らしながら。


◉2人の出会い◉


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北村らすく
ハマショーの『MONEY』がすきです。