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指揮者ヘルベルト・ケーゲルと東ドイツ~ブルックナー8番を聴いて~

1990年10月。ドイツ民主共和国(通称「東ドイツ」)の全州がドイツ連邦共和国(「西ドイツ」)に加盟。前年の「ベルリンの壁崩壊」から、わずか一年で、東ドイツは消滅しました。

この頃、自分は大学生。東欧の社会主義陣営諸国に、一気に民主化の流れが押し寄せる様を見て、我々が、冷戦終結という歴史の転換点にいることを感じました。

この年の11月。東ドイツの名指揮者ヘルベルト・ケーゲルは自ら命を絶ちました。

個人的に、指揮者ケーゲルに最初に触れた演奏は、ブルックナーの交響曲第8番。PILZというレーベルです。ジャケットの一番上に、"East German Revolution"と誇らしげに書かれています。西ドイツでプレスされた盤で、解説も録音データの記載もありません。通常のブックレットでなく、ただの一枚の紙が二つ折りされた紙には、「一つの革命が精神を開放する。これまで封じ込められていた文化が今、より多くの人々に知られ始める」と、日本語を含め6か国語で書かれています。

当時の西ドイツによって、それまでペールに覆われていた東ドイツの音楽を紹介する目的でリリースされたものでしょう。

ライプチヒ放送交響楽団を指揮した演奏。おそらく70年代の録音と思われます。録音は比較的明瞭。響きはデッドで、残響は少なめです。

結論から言いましょう。私は、素晴らしい演奏だと思います。また、かつて東ドイツという国が存在し、そこで演奏された貴重な音源として歴史的な価値もあります。ブルックナー・ファンには堪らない録音です。指揮者の個性がにじみ出るような演奏ですので、初めてブルックナーを聴く人には不向きかもしれません。

第一楽章。ゆったりとしたテンポで音楽は進みますが、実に雄渾で、決然としています。第二主題もけっして優しくなり過ぎず、音楽が全くダレません。緊張感がみなぎっていて、筋肉質な音楽です。これはケーゲルの音楽性そのものです。その代わり、スケール感は控えめです。

ブルックナー特有の転調の繰り返しが正確に音で表現されてます。指揮者がオーケストラを厳しく鍛錬している証。現代音楽の旗手でもあったケーゲルの腕前が発揮されています。

このオーケストラの弦の音は、艶やかさや滑らかさは感じません。ほの暗い炎のような色です。金管の音は硬質で、温度感は少なめ。すべての楽器が咆哮する場面は、ムンクの「叫び」のような切迫感が伝わってきます。ローソクの火に照らされる鋭利な鉄の斧をイメージします。

第二楽章。管と弦のバランスがとてもいい。ここでも、クラリネットやチューバの音は硬く、剛毅なブルックナーを印象づけます。中間部に入っても、ケーゲルはテンポを落とさず、音楽は前進するのに、急かされる印象はありません。長調に転調しても、東独のオケの音色は深みと味わいを感じさせます。

第三楽章。音楽の輪郭がぼやけた印象で始まりますが、やがて弦楽器が硬めの音で、ハッキリと語り出します。背後のハープもまた、音色に煌びやかさはなく、深く沈んだ重い音です。ここには、ウィーン・フィルのような流麗さはありません。ライプチヒ放送交響楽団の弦楽器も管楽器も、どちらと言えば、ゴツゴツとした演奏に聴こえます。ぎこちなさを感じさせるところが、ブルックナーらしさとも言えるので、個人的にはネガティブな印象は受けません。むしろ、この長い楽章において、音楽が全く弛緩せず、凛とした深みを奏でる指揮者の手腕に脱帽です。オーケストラも実に気迫のこもった演奏でそれに応えています。

そして最終楽章。ここでも、ケーゲルの音楽は実に明晰。贅肉を削ぎ落した辛口の音楽です。容赦なく、ダンダンダンと響くティンパニの連打、金管の鋭い響き。広い範囲に響き渡るのではなく、凝縮された音楽が、一点突破するような一気呵成に突き進みます。エンディングもリタルダント無し。見事な徹底ぶりです。

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イデオロギーを優先する国家においては、指導者の思想、政策などは、すべてが正義であり、何人も、それに逆らうことは許されません。

政権幹部が良しとしたもの以外は不正解。常に「正しさ」が求められる社会であるとも言えるでしょう。ソ連の実効支配化にあった東ドイツにおいて、人々は、自分の意見を言う前に、周囲の空気を読み、言葉を選び、適切な発言をしたことでしょう。常に、自身が「正しい人間」であることを証明し続ける必要があったはずです。

こうした風土が、音楽にも滲み出てきたであろうことは、容易に想像がつきます。オーケストラは、指揮者という「指導者」の前では、軍隊のように規律正しい集団であることを義務づけられていたことでしょう。

そうした国で、こんなも雄弁かつ率直な演奏がなされていたことに驚きます。ケーゲルは、ブルックナーの演奏において、自分の「軸」をしっかり持っているように感じるのは私だけではないでしょう。

西側諸国が、グローバル化によって、各国の独自の個性を失っていったのと対照的に、東ドイツのオーケストラは、古き良き時代のドイツ的ないぶし銀の音色を保ち続け、頑固一徹な指揮者が、そこから強靭な音を引き出していました。

ケーゲルは、最後の来日(1989年)時のインタビューで、「我が国におて、音楽家どうしでも、共産党員と非共産党員の間でアパルトヘイト的な差別がある」と述懐しており、自らを「社会主義者である」と公言しています。しかし、彼は、「いつの日か、本当の社会主義が勝利するでしょう。しかし、それは本当の社会主義でなけれななりません」とも付け加えています。

ケーゲルにとっての理想的な社会主義とはどんなものだったのか。今となっては、それは知ることはできません。このインタビューの一年後、自ら命を絶った真の理由もわかりません。

対岸の火事のように暮らしてきた、自称「自由主義陣営」に暮らす我々日本人ですが、インターネット空間において自由に発言ができると思いきや、時折、「正しさ」という壁にぶち当たります。コロナ渦における同調圧力を挙げるまでもなく、多くの人々が、「正しさ」に縛られて、感情的に正義の旗を振りかざし、それを他人にも強要します。

果たして、我々人類に、真の自由はあるのでしょうか。幻想でしかないのでしょうか。

ヘルベルト・ケーゲルは、音楽家として、思い描いたものを十全に表現できたのでしょうか。できれば、70歳以降の彼の指揮を見たかった。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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