貧乏がつなぐ。
居酒屋のトイレで用を足していると、相田みつを先生のお言葉が視界に飛び込んできた。
「しあわせは いつも自分のこころが決める」
その話、トイレでしなくちゃいけませんか?というセリフがチャンジャと共に喉まで出掛かったがぐっと飲み込んだ。チャンジャも。
僕の実家は、母子家庭であった。
両親が離婚したのは僕が小学校に上がる前年くらいだったように思う。シングルマザーの貧困については色々なところで語られており、詳しくはあまり覚えていないけれど我が家も多分にもれずやはり貧乏だった。
母子家庭になり、はじめに住んだ家は町内にある日本酒醸造所の元社宅の建物だった。
ネズミは出るし、お湯は出ないし、トイレはぼっとん。壁が薄いから、隣に住むオジサンがカラオケを歌う声でたびたびオバケ騒動が勃発するような家に一家四人で身を寄せたのである。
その家で僕たち三兄弟は、麦チョコを分け合って食べていた。
今でこそ手のひらに載せた一握りの麦チョコを「スココココ」と吸って食べる「ダイソン食い」ができるが、当時の我々は一粒ずつ数えて公平に分け合っていた。時々混ざっている麦のないチョコだけの小さい粒を、一粒とカウントするかどうかで口論になったものである。
同時に、ジュースにも公平さが求められた。水道水や麦茶以外の飲み物は基本的に貴重品なのだ。分け合う際は、必ず同じ形のコップを用意し、横から見て「こっち多い」とか「こっち少ない」などと全員で協議し、全員が納得してようやく口にすることができる。家庭内民主主義の実践だ。1ccを賭けたジャンケンに突入する時は武力行使、外交の敗北である。兄も僕も、ねじった両手の奥にきらりと差し込む裸電球の光に、オレンジジュースを1cc多く飲む未来を描いていた。
病院の厨房で働く母はパートで、朝から晩までみっちり働いて給料は10万円程度だったが、僕は子供ながらに「すげぇ、10万円だって!」と興奮した記憶がある。お金の価値は全て麦チョコ何袋分かに置き換えられる年頃であった。
翌日、同級生に「ウチのお母さん、給料10万円なんだって。すごくない?」と持ち掛け、気まずさで表情を失う人を初めて目撃したのがこの時である。彼は「うちのお父さんは30万円だ」と言ったが、僕は「出たよ、小学生特有のマウントとるための嘘が」と取り合わなかった。そんな仕事は存在しないと思っていたのだ。
貧乏とは、あるラインまでは主観的な価値観だ。とりあえず必要なものが手に入る限りにおいて、少なくとも僕は貧乏ではなかったし、仮に貧乏だとしても「貧乏も悪くないな」と思っていた(これはあくまで子供の側の感覚の話)。母親が、生活のリソースをほとんど子供に注いでくれたおかげでもあると思う。
家族で麦チョコを分けること。
週一回の銭湯と、風呂上がりにもらえる百円玉の使い道。
ジュースをみんなで真横から見て話し合うこと。
サンマの骨はストーブの上で焼いて食べること。
アイスの代わりに、イチゴシロップと牛乳を混ぜて凍らせて食べること。
遊び道具は道で拾ったタイヤのホイール。
そんなことが猛烈に楽しかったから、なんにも困らなかったのだ。
貧乏生活はゲームであった。少ない資源をいかに公平に分け合うか(もしくは奪いとるか)というルールが、貧乏にゲーム性を与えたのだ。
友達がたくさん集まる家だった。
どう考えても普段もっといいおやつ食べてるだろ、という友人たちがこぞってイチゴシロップ牛乳アイスを欲しがったあれは、何だったのだろうか。
みんな同じコップを横から見つめるルールも守ってくれた。麦チョコも全員でキャッキャ言いながら分け合った(帰宅した兄姉には怒られた)。そうなると僕はもう木村庄之助よりも厳しい判定を下す鬼審判と化すわけだが、みんな喜んで数滴を分け合っていた。
そうか、みんな面白いことが好きなんだな。
「面白い」ということは、人と人をつなげる一番簡単な価値なんだな。みんなと楽しさを共有したら、優劣のないフラットな関係が出来上がるのだ。
「幸せは、いつも自分のこころがきめる」
相田みつを先生、その通りだと思います。楽しくやってれば貧乏だったかどうかは関係ない。人も寄ってくるし。
色々な理由で、自分は不幸だと感じる時は誰でもあるんだけど、我慢しろとか気の持ちようとかではなく、小さな楽しい気持ちを持てたらいいなぁ、と願うばかりだ。そのこころをもてたら、そこそこ幸せになれるそうである。不遇を笑ってしまえば、少なくともその瞬間は楽しいではないか。
願わくば、そんな素敵なセリフはトイレではなく然るべき場所で聞きたかったが、その文句は相田みつを先生ではなく、居酒屋店長に言わねばなるまい(言わないけど)。
#エッセイ #貧乏#スキしてみて#麦チョコ#木村庄之助#考え方