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佐藤仁志の小説

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僕が書いた小説をまとめました。頑張ってたくさん増えていくといいなー。
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記事一覧

『lifetime』(1-2・2)

 田崎が帰宅した頃、部屋の中は古い写真の中のように暗く、空気が停止したまま、遮光カーテンの隙間から朝日が入り込んでいた。  フローリングの床に置かれた小さな冷蔵庫の唸り声と、浴室の換気扇の音だけが田崎の耳によく届いた。  厚手のダウンジャケットを脱いで玄関脇のポールハンガーにぶら下げる。溶けた雪の雫が数滴、床に落ちて繋がった。  濡れた髪をタオルで拭くと、昨夜、出掛ける前に丁寧にセットしたセンターパートは見る影もなく消え去った。窓枠にハンガーで吊り下げたスウェットズボンに履

『甘い生活』(1-3・3)

 たとえば、この手。  今、夫の身体を横向きに倒し、支えながらもう一方で尻に付着した便を拭き取るこの手。  週に二度、入浴介助のヘルパーが来る日の他は、毎日温かく湿らせたタオルで夫の首や腋や隠部を拭く、この手。  または、一人暮らしの恋人のためにハンバーグを捏ねるこの手。彼の髪を撫でる時の、この手。  信じられないような多くの役割を持つからこそ、この手には意味があるのだ、と奈緒は思う。恋人の、まだ二十歳になったばかりだと言う彼の手が驚くほど滑らかで、奈緒は思わず手を引っ込

短編『迎春』(1-1・1)

 睨み合うように顔を向かい合わせているロードマップは、朝露でしっかりと濡れていた。いや、夜露、というべきだろうか。  白い湯気がもうもうと立ち上る魔法瓶を右手に持ち替えて、左手首の腕時計に目をやる。間もなく午前四時になろうとしていた。  真夜中と変わらない暗闇の中で、千紘のヘッドライトがちらちらと忙しなく左右に揺れている。辺りには、千紘と同じように初日の出を山頂で拝もうとする数名がロードマップを見つめていた。  絵で描かれた登山道を指で追いながら確認する年配の夫婦。温かい

【小説】虫旅行

 目を閉じると、視界の端でみどり色の残像がゆっくりと流れていく。天井から水面を照らす太陽みたいに明るい白色灯を見つめたせいだ。まるで一緒に泳いでいるみたい、と僕はプールの温水に浸りながら、無意識に持ち上がる口角に気が付いた。  背泳ぎは好きだ。耳まで水に沈むと、まわりの音が聞こえなくなる代わりに自分の呼吸がやけに大きく聞こえてきて、ひとりぼっちになったような感じがするのが、特に好きだ。  クロールも平泳ぎも出来ない僕は、ただぽっかりと水に浮かぶことに夢中になった。それから、天

【半小説】レシートを捨てたい

 缶コーヒーの代金を支払おうと財布を開いて、ああ、これが千円札だったらな、とレシートの束を見つめながらため息を吐く。点々と灯る街灯だけが優しい夜、店員の間延びした「ありがとおざいやしたあ」と来店のメロディを背中で引き受けながら、俺はゆっくりと空中に散らばっていく白い吐息を見た。  真冬の澄んだ空気は、俺に斉藤の結婚式を思い出させた。いや、正確には二次会だったか。その日に知り合った彼は、友達の友達だった。酒の勢いも手伝って意気投合した彼は俺の財布を見て「自営業なの?」と問いか

【小説】隔たる日々を折りたたむ中【約25000字】

〈1〉 月のない夜、憧れのような視線を空に送る。 冷えた空気は鋭く澄んでいるのに星ひとつ見えない。 都会の夜空はいつ見ても寂しいな、と遥は思った。視線を落とすと、星の見えない寂しさを覆い隠すような色とりどりのイルミネーションが目に入り、遥は思わず目を細めた。 等間隔で植えられたイチョウの木は、秋に赤や黄色の葉を落としたあと、今は緩やかに青白い光を纏っている。その不規則な光の中を、遥はコートのポケットに手を入れて歩く。 2年前のセールで買ったアッシュグレーの厚手のコート

2000字ドラマ 小説『飛び立つ前の』

飛行機が飛び立つ瞬間を見に行かないか、と沢渡が声を掛けてきたのは、教室の机で進路希望調査表を前にした僕の顔が今にもひび割れてしまいそうだったからに違いない。 高校三年生の夏休みを間近に控え、教室の窓からは分厚い積乱雲が真っ青な空に覆い被さる隙を虎視眈々と狙っているのが見えた。 思わず「いつだよ」と返事をした僕を見て、沢渡は目と口がくっついてしまいそうなくらい嬉しそうな顔をして「日曜日がいい」と言った。 「日曜日は夕方まで塾の模試がある。無理」と言うと、そのまま僕はふたたび

#2000字のドラマ『同じ距離に浮かぶ』

「僕たちは観覧車が地上から最も離れたとき、そこを頂上だと思う。でも、それは勘違いだ。観覧車は円形で、それぞれのゴンドラは全て放射状に同じだけ中心から離れている。つまり、頂上なんてない。たとえ、地上に立つ人から見下ろされようとも、僕たちは等価だ。上下も優劣も存在しない。」  僕のノートパソコンの中で登場人物が饒舌に語った。空はいつの間にかオレンジ色のグラデーションで染められて、歩く人の顔を鮮やかに照らしながら、同時に、心のうちを覆い隠すような真っ黒な影を東側に伸ばしもした。僕

#2000字ドラマ 小説「花になる」

あの子は花になった。深夜、病院のエントランスホールで鳥野が口にしたその言葉を、美月はずっと忘れられないだろうなと思った。そんな難解な言葉を語るには、あまりにもなめらかで自然な口ぶりだったから。 美月と早苗はもともと仲が良かったわけではなかったが、中学生になって部活での人間関係に疲れて学校を休みがちになった美月が、平日の昼間、犬の散歩のためにいつもの川沿いの道を歩いていると河川敷に腰を下ろして川を眺める早苗を見つけた。そっと通り過ぎようと思ったが、飼い犬が声をあげてしまい、振