猛り立つ声には切なさが隠れてる
タイトルは米津玄師くんの「飛燕」の歌詞の一部。
傷ついたのか苦しかったのか、悲しみのあまりなのか、それなのに表に出てくるアクションが猛烈な怒りになってしまっている人。そういう人が存在することが理解できなくて、その怒りに傷ついてきた人がいた。
その人にとって、怒鳴るとか怒るとかは、相手に憎しみを持った時にしか発生しない感情だった。例えば悪いことをされたとか、こちらのいうことを聞いてくれないだとか、そういうわかりやすいこと。その人は、悲しいときには悲しいというし、苦しければ苦しいというし、涙もする。不安ならこれが不安だと分かりやすくいうのが当たり前だった。
だから悲しいが故に怒るということが全く理解できなかった。
「また怒られてしまった」と思っては、その度に自分がまた悪いことをしたのだと落ち込んで反省をしてきた。
でも怒ってる人の本当の感情は、その人への怒りではなく、違うところでおきた悲しみや不安ややるせなさだった。それがたまたま、目の前にいる感情をぶつけてもいい相手に怒りとなって放出されてるだけだった。
ぶつけられた側が、怒られたと思ってどんなに反省しても、傷ついても意味がないのだった。
ただそうやって悲しみのあまり八つ当たりしてしまうような感情や、怒りとしてぶつけることで人に頼るという形があることを知らないだけだった。
初めて悲しみが怒りとして現れていたのだと知ったとき、人の感情とはなんて複雑で豊かなんだろうと思ったらしい。
怒られて相手を憎んだり、なぜ私にそんなに怒りをぶつけるのかと悲しんだりもしたそうだけど、自分を信頼して頼っているから、ありのままにその感情をぶつけてくれてたのだと知り、気持ちが180度変わることができたと。
人の気持ちは計り知れない。自分の尺度だけで判断しきれない。
わかろう、理解しようと努力し続けるしかないのかもしれない。
とにかく表面的な言葉や態度だけに振り回されてはいけないということが、この話の一番大切なところ。
また一つ大きなことを学ばせてもらった。
おわり
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