人はなぜ体験を大切にするのか?
人は体験を大切にする。
なぜ大切にするのだろうか?
ネットにアクセスすれば「答え」は労せずに得られるのに
富士山の山頂からの景色も。
モナリザの微笑みも。
レストランの良し悪しも。
映画の感想も。
答えだけを知るのと、体験をするのとでは、
一体なにが違うのだろうか?
今、オトナたちは、子どもたちに、
どんな体験の機会を準備しておけば良いのだろうか?
そんな「体験」への問いを書いてみた。
小辺路の話
小辺路という道がある。
和歌山の高野山から熊野大社までを最短距離で結ぶ参詣道で、熊野古道のひとつだ。
全長約70kmの道程は途中3つの1000m級の峠を越える非常に険しいもの。
だからこそか、この道を現代でも旅する人がいる。
実は、私も過去に3度この道を熊野大社参詣のために旅した。
それも走って(笑)
高野山を夜22時に発って、夜通し走り続けて、翌日の14時ごろに到着するという、なんともドヘンタイな旅だ。
3つの1000m峠を越えるための山道を登る度に
「めっちゃしんどい」
「あ~もう嫌だ」
「きつい」
「なんでこんなことやってるんやろ」
そんな思いばかりが頭を埋める。
熊野大社にお詣りするなら、車や電車を使えば体力を消費せずに楽に辿り着ける。
高野山から自分の足で走って行っても、車を運転して行っても、どちらも同じ熊野大社だ。
なにも変わらないはずだ。
でも、車で来ただけでは決して味わえなかったであろう感動を得られた。
ネットで熊野大社のことや小辺路のことを知っただけでは知覚できなかったものがインプットできた。
熊野大社は私にとって特別な場所になった。
これは一体なにが起きているのだろうか。
「体験」の価値とは
人間は相対的に物事を感じる生き物だ。
だから、なにかと比べることでしか、そのものの価値を感じられない。
冷たいを感じるから温かいを感じる。
速いを感じるから遅いを感じる。
もし長距離を自分の足で移動することが世間一般で当たり前であれば、
熊野大社が私にとって特別な感動をもたらすことはなかったのかもしれない。
当時の私はフルマラソンをいくつか完走し、
毎日のように山を走っていたが、
1000m級の峠を3つも越えて、
約70kmを16時間で移動するのは、
通常とは違うハードな体験だった。
日常とは違う体験が特別な意味をもたらしてくれる。
それが知覚の成長や、感性の鋭さを作る。
知覚、つまりはインプット能力は変化や違いに気づく・わかる能力であり、
感性は気づいた変化やわかった違いにどんな意味付けができるかだ。
当たり前と違う体験をすることで、そういった相対的な感覚が磨かれていく。
だから、人は体験を大切にするのだろう。
結果を大量にインプットすればいいという価値観
しかし、わざわざ分かりきったことを体験せずに結果だけをインプットすればいいと言われることは幾らでもある。
テレビで見る富士山の山頂からの景色も、実際に登山して見る景色も、同じ景色だ。
美術館で見るモナリザも、ネット検索して見るモナリザも、どちらも同じモナリザだ。
結果は同じ。
答えは知っている。
それでいいじゃないか。
そんな風に思えることもあるだろう。
可処分時間最大化だとか、効率化だとか、コスパだとか、ライフハックだとか、すべてを合理化していくような合理主義のもとでは、体験を極限まで削ぎ落として、できるだけ多くの結果(答え)をインプットすることに偏重してしまう危険がある。
確かに限られた時間しか持ち合わせていない我々は、時間がかかる体験をいくらでも行うことはできないだろう。
オトナが用意するべき体験とは
体験はとてつもなく大切ながらも、大量に時間を投下しないといけない。
情報が溢れている現代だと、体験をすっ飛ばして結果だけをインプットすることに偏重しやすい。
しかし、結果だけをインプットしていても、知覚や感性が育たない。
これらのインプット能力が磨かれないと、思考力は鍛えられない。
本来は体験という知覚と思考によって導き出される結果が、
それらがなくても知ってしまうのだから当然だろう。
とはいえども、なんでもかんでも体験するなんてことは時間の制約がある以上に不可能ではある。
(本当はなんでもかんでも体験するのがいいんだけど)
なので、どんな体験をできる機会を準備していくかがオトナの役割だと思う。
これはまず最優先されるべきは、体験する本人が今まさに興味関心のあることだろう。
鉄は熱いうちに打てというが、子どもの好奇心はそうやって育てられていくに違いない。
オトナは「あとで」を言いがちだが、本当に子どもの知覚と思考力を鍛えるのであれば、「あとで」は禁句だ。
それによって子どもの好奇心はどんどん失われてしまい、大切な体験をする機会が消えてしまう。
体験とは文脈なのだ。
その体験に至るまでの興味関心の源泉があり、体験したいと思うほどの欲求と需要があってこそ、体験が日常とは違うものになる。
そういった文脈が大切なのだ。
だから、学校で無理やりに連れて行かれるような社会科見学のような体験は価値がないのだろう。
文脈がすっ飛ばされているので。
好奇心の赴くままに実際に体験してみる。
そして、その体験を表現する機会を用意する。
絵に描く。
詩を書く。
音楽にする。
踊ってみる。
映像にしてみる。
文章にしてみる。
話してみる。
これも本人がやりたい表現方法ができるようにするのがオトナの役割だろう。