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【EP3】手は差し伸べられない

現状社会において普通の人が着々とキャリアを積む中、発達がキャリアを積める境遇はよほど特殊な才能やセンスでもない限り、皆無といっていいかもしれない。いや、普通の人ですらキャリアを積むのが難しい現代、発達からすればいっそう息苦しい社会なのだろう。

前項で述べたように、アメリカではすでに大きな社会問題として捉えられているこの問題。日本でも深刻化するのは時間の問題である。

すでにアメリカでは、実に10%程度の子供にADHDの疑いがあるという。10人に一人は発達障害の疑いがあるということだ。2012年の文部科学省の全国公立小中学校を対象にした調査でも、6.5%の児童に発達障害の疑いがあると報告された。年を追うごとに発達の数は着実に増え続け、それに伴いカサンドラの数も増加傾向にあるのが現状である。

発達障害が変異的でなく遺伝的な障害だという背景を鑑みれば、これから発達障害の割合は増加の一途を辿るだろう。将来的には発達がマジョリティとなり社会を形成することも十分に考えられるわけである。つまり資本主義利益追求主義を徹底する日本社会も、古い企業体質を捨ててどこかでターニングポイントに迫られる日が来るということではないか。長い目で先を見据えれば、これは確かに重大な社会問題である。

弟は今、通院と併せて医師から公式にではなく私的にご紹介いただいた自助会のようなところに通っている。その自助会や当事者コミュニティですら、公的に案内してもらえるところは皆無であった。“発達障害者への救いの手の少なさ”を改めて思い知った次第である。

とはいえ、僕も彼にずいぶんと苦しめられた身。

彼に対し憎しみにも似た感情を覚えているのは紛れもない事実。まるで毎日のように理不尽な暴行を加えられているような気分になり、ずいぶんと気持ちが荒んだ。増してこれは、誰にも理解されない苦しみだ。カサンドラ症候群に実際に陥った人間にしか分からない苦しみかと思う。

こんなにも理不尽なことはない。犯罪被害であれば、まだ社会が加害者を罰したり被害者を理解しサポートしてくれたりする分、救いがあるといえばあるかもしれない。ところが、発達障害者に苦しめられる人間は誰からもサポートしてもらえず理解されない上、責任だってとってもらえないのだ。そのくせ受ける被害はある種の犯罪と同程度だったりそれ以上だったりするからたちが悪い。僕のような立場の人間が「発達障害者の被害者」として被害を訴え、発達を糾弾したくなる気持ちはよく分かる。

しかし言うまでもなくこれは犯罪とは違う問題で、あくまで個人的あるいは社会的な問題である。個人的な恨みつらみは人間だから仕方ないにしても、その感情をメッセージとして言葉に乗せるのはあまり建設的なことではない。一時的なガス抜きにはなっても、問題の抜本的解決にはつながらないのだから。

この問題には二つの課題がある。

一つは、発達障害者の居場所をどうやって見つけるか、あるいはどうやって作るかということ。執筆を通して僕自身それをよく考え、自分なりの答えを見つけたい。こういう観点で頭と心の整理ができればこれ以上のことはないと思う。なぜならこの体験は僕にとってほとんどトラウマのようなものであり、いまだに心の整理がつかないからだ。“書く”という手段を通して、自分の中でどこか折り合いをつけたいというのが本音である。

もう一つは、発達障害者の被害者あるいは犠牲者にならないよう、定型はどうやって身を守るべきかということである。

発達障害の問題は、どうしてもその当事者にスポットライトがあてられ、周辺で悩む人間に同調する声はあまり多くない。だからこそカサンドラの立場での情報発信には意味があると思うし、僕の体験が似たような境遇にいる人の参考になったり救いになったりすれば──という淡い期待がある。いつかこの手記を公開し、苦しむ人のお役に立てたい。

また配偶者などパートナーの発達障害に苦悩する方の情報をネットや書籍で見つけるのは簡単だが、いわゆる上司部下での観点で現場意見を目にする機会はあまり多くない。だが上司あるいは部下の発達障害に苦しんでいる潜在的な社会人は確かにいるのだ。そしてその数は、決して少なくないはずなのである。

定型の目線、そして発達の目線、双方の目線でこれらを考えれば、きっと最善の道が見えてくるのではないかと思う。


解説)

怒りをそのまま文にぶつけるか、それともあくまで理性的なスタンスを守るか。その葛藤の中で書き上げた原稿だと思います。

次項からはいよいよ私が体験したことについて触れる機会が多くなります。取り急ぎここまで読んでいただければ、私が発達障害への偏見や差別意識を持っていないことをご理解いただけたかと思います。以前も今もその基本は変わりません。事実、発達障害の疑いがある弟が素直に私の話に耳を傾けたり、発達障害の疑いがあるという指摘を受け入れたりしたのも、私が偏見を持たず公正かつ客観的に物事を理解しようと努めたからだと思うのです。

性質としてまったく相容れない者同士ではありますが、最後にはこういう実直さや誠実さが、人と人の心をつむぐのかもしれません。

ただしカサンドラには、自分の身を守るために時には「No」を突き付ける勇気が必要です。相手を拒絶するのは何も悪いことではありません。

優しい人ほどカサンドラに陥りやすい現状を見れば、実直さや誠実さでつむがれる心とは幻に過ぎないのではないか──と思うのも正直なところです。

問題はあまりに深いですが、ルールはいつだってシンプル。

自分を犠牲にするな──です。

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