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藤原定家の熊野詣をトレイル㉑ DAY5 穢れと水垢離 地震と偉人 湯浅

後鳥羽上皇の一行が京都の鳥羽御所(現在の城南宮あたり)を出発して、5日目。その日、和歌山県海南市にある藤白王子を出た一行は藤白峠、蕪坂峠、糸我峠、そして街の入口にあたる小さな方津戸峠を越えて、ようやく湯浅の街に入った。道の整備された現代でもヘロヘロなのに、いわんや当時をやである。
さすがの定家さんも疲れ切っていた。

熊野古道の道標 東 紀三井寺
矢印がかわいい

上皇や内大臣の源通親などには立派な宿舎が用意されるが、中流公家という微妙な立場の定家には粗末な仮の宿が用意されているだけ。
昨日も、一昨日も寒さに震えて寝たことを考えれば、たまにはゆっくり寝かせてほしい。そこで、道案内を務める先達(山伏)の文義に頼んで、どこかの家に泊まらせてもらうことにした。
文義が配下を使って探してきたのは、少し離れた小さな民家だった。中に入ると暖かい。「あー、ありがたい。ようやくゆっくり眠れるよ」と、京極さんも喜び、家の者と話していと、なんとその家の主がつい最近亡くなっていたことがわかった。
「うへぇ・・・」言葉にならない言葉を発したかどうかは定かではないが、熊野詣で死は最大の穢れ。しかも上皇に供奉する身ではありえない。慌てて家を飛び出し、穢れを払おうと水垢離をはじめた。「ヒーッ!」水の冷たさと、久方ぶりの暖かい寝床を失った怒りで、くやし涙を流したとか。

しかし、水垢離ではこの穢れは払われぬと、今度は海水を持ってこさせそれをかぶって潮垢離まで行い、何とか気持ちが落ち着いた。
そんななか、定家の災難など露も知らない上皇から御歌会の朗詠役のお召しがかかる。ちょっと寒気はするが鼻をすすりながら、烏帽子をかぶり御所に赴き、何とか歌会を終えた。その夜、果たして隙間風の無い新たな宿舎で、暖かく眠れたのであろうか。そこについての記述はない。

さて、それから823年後。こちらも海南駅から峠を大小合わせて4つ越えてきたので疲労困憊。とはいえ、湯浅といえば醤油発祥の地であり、古い町並みも残っていると聞いていたため、足のマメは気になるが、そのまま旧市街地に向かった。低い屋根と細い路地の古い街並みをキョロキョロ眺めながら歩くと、醤油の匂いが漂ってくる。

プーンと漂う醤油の匂い

残念ながら醤油誕生は1260年代あたりらしいので、上皇一行がこの匂いを嗅ぐことはなかったようだが、日本人にとって、海外から帰って来ていちばん嬉しいのが、この醤油の匂いと出汁の香りと、ご飯が炊けたときの湿度100%のもわっとした匂いに、干物の焼けた…、あとなんだ。。。。とにかく、幸せの匂いであることは間違いない。

さて、さらに湯浅町から那耆大橋を渡るとそこは広川町。かの有名なヤマサ醤油の濱口梧陵さんが生まれた場所だ。1854年の大地震でこの地に大津波が襲った時に、自分の田んぼの稲むらに火をつけて安全な場所に誘導したといわれる篤志家で、私は東日本大震災の時にその存在を知り、さらに、TVドラマの「JIN」でペニシリンの製造をバックアップする商人のモデルでもあったので、いつか梧陵を称えた「稲むらの火の館」に行ってみたかったのだ。
17時閉館だったのでゆっくり歩いていたら、入場は16時まで。非情にも入口は閉じられていた。

那耆(なき)大橋 那耆とは古い地名らしい

しょうがないので近くの共同浴場にお邪魔する。値段はなんと100円。キレイで電気風呂もあって最高だ!ただ、客はみな近所の顔見知りなので新顔には「あいつ、誰だ」となるのは仕方がない。

キレイで安くて、み~んな知り合い
お邪魔しました!

今回は出張ついでだったのでここまで。
これから大阪で仕事だ。

今回の成果
湯浅~広
歩いた距離 5㎞


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