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京極さんの熊野詣トレイル② DAY1 坂口王子

清々しい秋の朝を味わいながら坂口王子(跡)を目指して骨屋町筋を南へ向かう。ご存じのように大阪は南北の道が「筋」で、東西が「通り」。
で、なぜこの筋は「骨屋」なのか。検索すると「骨」とは傘の骨をつくっていたとか、牢屋があってそこから骨が出てきたとか、そんなことが由来らしい。おもろいなと思いながら上町台地をわずかに上り、熊野街道も台地のヘリを通っていたのだなぁと感慨深い。


梅田を出発してからまだ3キロほど歩いただけ。まだまだ元気でなんか楽しくなってきた。しかも、町名がコロコロと変わっていくww
「ブラタモリ」でもやっていたが、秀吉が大阪の街を東西でわけたためで、南を向かいながら北浜東は石町へ、続いて島町、釣鐘町、船越町、内平野町、内淡路町……と、おもしろい。

大坂の街の境目は背中(裏通り)で区切られていたんですねぇ。

 
と思っていたら、中央大通りにぶつかり、農人橋の歩道橋を迂回する羽目になる。こうした古い街道を歩くと必ず大通りとか川、鉄道が邪魔をする。まぁしょうがない。昔は川を渡るのも一苦労だったろうから一緒だろう。定家の時も橋のない川をいかに渡るか悩んだに違いない。
 
何しろ藤原定家の役割は先回りして、上皇の食事や儀式、宿泊の準備をしておくこと。そのため後鳥羽上皇が渡辺の津に着いた時には、既に坂口王子のロケハンに向かっていた。そこに、歌聖と呼ばれる”雅”な姿はない。
公卿と呼ばれる従三位以上の高級公家ではない、当時従四位下左近衛権少将の定家は、上皇や側近である公卿のために奔走しなきゃならなかった。だから、定家は早く偉くなりたかった。偉くなるため、出世のために神経質で、体が弱いにもかかわらず参加したのだ。
気づけばもう40歳。出世の最後のチャンスかもしれない。そうした決意で熊野に向かった。不純な動機に親近感も湧く。
狙うは、上皇及び側近筆頭の源通親。とくに通親は清盛派から後白河上皇派へと権力をうまく渡りながら、後鳥羽上皇の側近となったが、鎌倉との仲も悪くはない。しかも、ライバル九条兼実との権力争いにも勝利し、この世の春を謳歌中だ。歌だけじゃないところ見せてやろう。
定家は燃えていた!

そんな思いがあったのか、なかったのかはわからないけれど、坂口王子についてみれば、その場所は南大江公園へと名前を変え、都会のオアシスになっていた。ちょっと西に坂を下れば「まっちゃまち商店街」。人形の問屋さんが多いことで知られ、平安ではなく昭和の匂いがプンプンした。

貞盛に良経に景時、定家にとってはちょっと前の人たち ゴチャゴチャしてんなぁ

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