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藤原定家の熊野詣をトレイル⑯ DAY4 古代の地名が目白押し 

熊野詣での舞台である熊野街道には珍しい地名が多い。
今日歩いてきたなかでも吐前(はんざき)、禰宜(ねぎ)、伊太祈曽(いたぎそ)となかなかの難度。日前宮への奉幣使を終えた定家と後鳥羽上皇一行と合流した奈久智王子も、「なぐち」と変わった名前。由来は諸説あるらしいが、この和歌山の辺りの古い呼び名である「名草(なぐさ)」への入り口ということで、なぐち(奈久智)となったらしい。名草という地名は波打ち際の「渚」から来ているそうで、古くは「日本書紀」にも出てくる。
神武東征で長髄彦に敗れた神武天皇は、その後、熊野にまわる途中でこの名草を治める女性首長の名草戸畔(なぐさのとべ)と戦い、滅ぼしたと出てくる。ちなみに、替わりに治めるように命じたのが日前宮の宮司で、定家を舞わせ、こそっと覗いていた紀一族であった。

神話の時代はまだ続く。奈久智王子から次の松坂王子へ行く途中にはちょっと時代が下り、武内宿禰が生まれたとされる武内神社がある。そして、その先の松坂王子あたりの地名を旦来(あっそ)という。こちらは、新羅遠征から戻った神功皇后とその皇子(後の応神天皇)を迎えた人々の歓迎ぶりにいたく感銘を受けた皇后が「またあした(旦)も来よう」と言ったことからこの地名となったらしい。
武内宿禰と言えば神功皇后を支えた名補佐役でもあるので、帰朝が叶い、「ぜひ、うちの故郷に」と招いたのかもしれない。
ちなみに、私の故郷の福岡市東区には神功皇后の夫で、応神天皇の父である仲哀天皇を祀った香椎宮があり、近くには神功皇后や武内宿禰に関する史蹟や神社も多い。和歌山を歩いて、まさか地元とのつながりの深さを感じるとは思わなかった。

さらに歩みを進めるが、神話の時代はまだまだ続く。
松坂王子から汐見峠を越えようと海南市民プールの脇を歩くと、その横に池がある。その名を「クモ池」といい、先の名草戸畔が最期を遂げたのがこのクモ池だと言われている。時の政権にまつろわぬ土豪を「隼人」や「蝦夷」、「熊襲」と呼んだが、同じように「土蜘蛛」と呼ばれた民もいた。女性首長の勢力を土蜘蛛と呼ぶ傾向があるので、それでここもクモ池になったのかもしれない。そんな伝説が市民プールの横にあることが凄い。多分、みんな知らないだろうけど。

今じゃ器用な亀が甲羅干しをするクモ池

そして、峠をくだると松代王子。神話の時代は終るが、女性の話はまだ続く。ここで藤原定家が幼子を抱いた盲目の女性を見たと書き記している。幼子のために、なんとか目を治したいと熊野へ参る途中だったのだろうか。わずか一行の記述だが、熊野へ詣でる人々の一途な思いが胸を打つ。

不自然な一本道はだいたい廃線か水路

さて、松代王子を過ぎて、菩提房王子へと向かう。その途中、不自然なほどの一本道が左右にある。川はさっき見たから、廃線跡に違いない。
調べてみると1993年まで海南市の日方から野上谷、現在の紀美野町まで走っていた野上電気鉄道の跡らしい。人も運ぶがロープやたわしといった日用品がメインの積み荷だった。
この辺りの特産品である日用品の歴史は古く、もともと南国の樹である棕櫚(シュロ)を室町時代から栽培し、産業にしたことが起源になったらしい。古くからシュロ製の箒や縄をつくっていたのだろう。そういえば、天狗の持っている団扇もシュロ製。熊野の天狗にもシュロを卸していたかもしれない。
その後、祓戸王子跡に着き、藤白王子もすぐ近くだが、全国の鈴木さんの発祥地である鈴木屋敷が閉館しているとのことなので、今回は祓戸王子で旅を終える。そこで、近くに発見した日限地蔵院さんの喫茶室にお邪魔し、ひとりまったりコーヒータイムを過ごす。
あ~、極楽、極楽。さらに温泉に寄って帰ろう!

住職の奥さんがつくるレアチーズケーキ


今回の成果
カフェ~奈久智王子~松坂王子~松代王子~菩提房王子~祓戸王子~日限地蔵院~温泉~海南駅
歩いた距離 12㎞


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