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京極さんの熊野詣トレイル⑫ DAY3 腹は減れども店はなし。

1201年10月8日、藤原定家の熊野御幸も4日目。この日の天気は「天霽」と書かれている。この霽(せい)という文字は晴(せい)と同じ音だが、雨が上がるという意味があるらしい。つまり、昨夜一雨あったようだ。先行が役割の定家こと京極さんは、まだ夜も明け切らぬうちに夜露に袖を濡らし、寒さをこらえながら厩戸王子を出立した。
この時代、昨今の地球温暖化とは違い少々寒い。国際環境経済研究所のサイト内にある「気候変動と日本史」によれば、夏に雪が降ったといわれ、「寛喜の飢饉」の原因となった1230年の異常気象ほどではないが、この年も、この時代の平均気温に比べて低温だったらしい。

そんななか京極さんの4日目は、和泉山脈を越え紀伊の国に入り、紀ノ川を渡って、現在の和歌山市を過ぎ、海南市の藤白王子まで約40キロの道のりを進む。馬を使うとはいえ、その都度、拝礼を行うのだから大変だ。そのためか、あるいはこの日の終わりに猛烈に疲れて書く気が失せたためか、前半の行程に関しては雑な記述になっている。「信達一之瀬王子に参り、坂中で祓い、地藏堂王子、ウハ目王子(馬目王子)に参り、中山王子、山口王子、川邊王子、中村王子と続き、昼食……」と、訪れる王子のみを記す具合である。

さて、こちらも厩戸王子を出発し、丘の上の府道64号線を南へと進む。その途中、さっそく「北庄司牛乳処理場」の前に自動販売機があったので牛乳を買い、飲む。いと美味し!

一般的な殺菌温度よりも低温なので本来の味を楽しめるらしい。
そして、パスチャライズという名前は細菌学の父パスツールから‼


そしてそのまま、長い歴史を持つ宿場町「信達宿」を抜けていく。司馬遼太郎の『街道をゆく 32』によれば、この信達荘が根来寺領だったとある。確かに根来街道を通れば山向こうと近く、この辺りの次男、三男が根来衆になっていたと書かれていたことにも合点がいく。なるほどと思いながら現代の住人の僧兵姿を想像しながら歩いた。
ちなみに、街中の石碑に足利尊氏がこの地を根来寺に寄進したとも書かれていた。改めてここが日本史の”現場”なのだと感じ入る。
ただ、現実的な目線で言えば本陣跡や常夜灯など立派な街並みが残っているものの飲食店がない。これから峠越えだから何か食べたいのだけど、うまい具合に店はなく、目の前の山は大きくなるばかり。
長岡王子に行けば、隣が和泉鳥取駅なのでと期待を込めたが駅前には何もなかった。

腹は減り続け、山は大きくなるばかり

腹が減るか、疲れるかで思考とやる気が著しく低下するため、なんとかせねばと考えていると地蔵堂王子付近に小さな商店を発見した。糖分補給のためにコーラとアーモンドチョコを購入したら元気もよみがえり、馬目王子を経て、そのまま山中宿へと入っていった。すると、静謐な通りなのに一か所だけ人だかりが。何かと思ったら卵かけご飯を食べられる”たまご屋tamaco”さんが現れる。
「おいおい、このタイミングかよ」と思う反面、「イエ~イ!」とも思ったが、食べるためには並ばねばならない。早めに峠は越えていたいので行列は遠慮したい。
しょうがないので、チョコボールを一つ口に入れ、そのまま峠に向かっていった。

卵かけご飯屋さん以外は、はい、このとおり!静かな山中宿




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